女性宮家、否、女系宮家創設の謀を討て

由々しき事態の始まりと思う。女性宮家と言っているが、実際、女系宮家の創設である。将来、女系宮家から親王殿下が誕生した場合、皇位継承者になることは必至。即位の暁には女系天皇の誕生となる。

日本書紀に基づき皇室の話をする。大きな樹と考えて欲しい。その樹の背丈は、2671年である。神武天皇を根幹に、宮家という枝を四方八方に伸ばしながら、今日まで時を紡いできた、と言える。

皇室のいう大樹は、男系継承という大原則を元に天皇位を継承してきた。天皇位の継承は、大樹の枝が年ごとに芽をふき、枝を伸ばしてゆくことに例えられる。そして、伸びた枝が枯れたり、折れたりしたとき、継承は大樹の別の枝が担う事になる。それ故、主流と傍流、本家と分家、天皇家と宮家という区別は本来馴染まない。

終戦時にGHQが行った事は、日本人が大切に守って来た皇室という名の大樹の枝の内、11本を無惨に切り落としたことである。私は、すべてはここから起因しており、諸々の問題の解決には、この間違いを糺すことが必要だと思う。

女性宮家と聞き、賛成する人が多いようであるが、一言言っておきたい。

女性宮家と言いながらも、政府の行おうとしていることは女系宮家の創設に他ならない。天皇位の継承を1つの家系が担えなくなった時、別の家系、つまり宮家が引き継ぐこととなる。その場合、女系宮家が引き継ぐこととなれば、6年ほど前に持ち上がった女系天皇の擁立を認めることとに他ならない。

また、皇族方の中に、男系で皇統継承をしてきた方々と、2671年間守って来たしきたりを破って作られた、にわか仕立ての女系を元とした人間が皇室の中で存在しえるものだろうか。私は不可能であろうと思う。

むしろ、我々が成さねばならないことは、GHQを否定して、GHQの野蛮な行いを糺すことにあると思う。
それはすなわち、皇籍離脱中の11宮家(現8宮家)の方々のご帰還をお願いすることに他ならない。今、皇室という名の大樹が危機的状況を迎えつつ在るのは、「終戦時の間違いを糺せ。日本人としての伝統と歴史を取り戻し、自信を取り戻せ」という天からの声のように聞こえてならない。

時々、鎌倉の鶴岡八幡宮の大銀杏が倒壊したのは、国民の神仏を慕う心を銀杏が感じる事ができなくなったためではなかろうか、と思うことがある。

11月25日、産經新聞の記事を読むと、読売新聞が勝手に宮内庁の名前を使って記事をねつ造したことは明らかである。読売新聞ボイコットと、女系宮家創設のための典範改定を阻止すべく行動を起こすべきである。


11月25日産經新聞記事からの引用
一方、宮内庁が女性皇族による「女性宮家」創設の検討を野田首相に要請したとする25日付の読売新聞の報道については 「具体的な制度創設の検討を要請されたものではない」と否定。羽毛田氏も同日、報道各社の取材に対し「(野田首相に)状況を 説明しただけ。具体的な選択肢を言うのは、宮内庁としては出過ぎたことだ」と語り、首相に女性宮家の創設の検討を要請したり、選択肢として示したりしたことはないと否定した。
http://sankei.jp.msn.com/politics/news/111125/plc11112511290009-n1.htm

12月4日追記:報道ステーション(Sunday)での櫻井よしこ氏と長野智子アナウンサーとの対談において、朝日新聞も産經新聞と同様の説明を宮内庁長官から得たと報道された。

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語られなかった皇族たちの真実
若き末裔が初めて明かす「皇室が2000年続いた理由」
竹田 恒泰【著】

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なぜ、早急なTPP参加に反対するのか

私は、今、拙速に参加を急いで抜き指しままならない状態になるよりも、オバマ大統領には時間が無いことを逆手に取って参加を見合わせることで圧力をかけると共に、TPPが決まった時点で、NAFTAで痛手を受けたカナダ他、TPPに参加していない中国やインドとの連携を考慮しながら、じっくり判断することが得策と考える。万一、日米安保による軍事的安全保障を人質に取って、米国がTPP受諾を迫るのであれば、我が国は毅然として再軍備の検討を行うべきであると考える。


1.国家主権が崩壊する。

 ISD条項とは、外国企業にとって進出の邪魔になるような対象国の国内規制、すなわち「非関税障壁」がある場合、企業が対象国を訴えることができるというものである。「国際投資紛争解決センター」における裁判は再審制度の無いものであり、一旦判決が出ると確定となる。敗訴すると、政府は規制を変更するか、高額な賠償金を支払わざるを得ない。過去の実績を見ると、米企業側に有利な条項と言える。
 この条項は、国民の代表が決めた国の法律や規制が外国企業の都合で変更されてしまうというものであり、国会議員の存在意義が無くなってしまうのみならず、国家主権の喪失にもなりかねない。
 北米自由貿易協定(NAFTA)の実例:カナダ政府によるガソリンへの神経性有毒物質の添加を禁止した法律が「差別的である」として、アメリカの石油企業が3億5千万ドルの損害賠償を請求した。(カナダはTPP不参加を明言。)また、メキシコでは、サトウキビ以外の原料による砂糖に対して課税する法律を制定したところ、米国企業から訴えられて敗訴した。NAFTAにおける訴訟では、これまでに外国投資家に凡そ3,500万ドル支払われており、各国政府に対し総額数十億ドル相当の請求が数十件起こされている。

豪米FTAの実例:豪州では、タバコパッケージに肺がん等の喫煙による病気に関する写真の掲載を義務づけ、ロゴの使用を禁止する規制を定めたところ、米フィリップモリス社は投資協定に反するという理由により豪州政府を訴える動きを見せている。

韓米FTAの実例:韓国政府によって医薬品の許可の遅延で発生した損害は、米国企業に補償を行わねばいけない。また、米国のメーカーは自社の薬価が低く決定された場合、これを不満として政府に決定の見直しを求めることが可能。つまり、国が主体的に薬価を決めることが困難になっている。

2.国内法が「非関税障壁」として排除される結果、以下の事態が起こり得る。

①遺伝子組換え食品表示義務の廃止
・国民の知る権利、選ぶ権利が奪われる。消費者行政の後退する。
・安全性が十分保障されない食品を食べさせられ、健康に支障をきたす恐れがある。
・日本人は自分の食べたい品種の食べものを選ぶという権利「食料主権」を失う。

②健康保険制度の崩壊
 「医療に利益至上主義を持ちこめ」というのがアメリカの要求である。最初、混合診療の解禁に始まり、診療報酬制度の廃止、国民皆保険制度の廃止、医療格差の拡大へと徐々に進んでいく可能性が高い。ハーバード医科大学による2002年調査では、年に4万5千人が無保険の為に死亡している。
 また、国民皆保険の無い米国の現状を述べた全日本民医連のコラムでは、『「既往症」を理由にした加入拒否は、一三〇〇万人を超えるといわれます。医療保険をもたない米国民は四七〇〇万人に達し、それに「保険に加入していてもカバーが不十分」という人(推定二五〇〇万人)を加えると、米国民のおよそ四分の一が「医療保険難民」ということになります』という報告がある。

③外国企業による公共事業の寡占化
 公共事業入札の条件に英語による入札書類の作成が義務づけられた場合、大手を除くほとんどの建築会社は、対応することが出来ないか、或は対応に時間を要するために市場を失い失業者が発生すると予想される。また、英文書を作成、管理、審査するための職員を地方自治体は新たに雇用する必要が有る。
 結果として。英語に不慣れな日本国民が職を失うこと、新規雇用による地方自治体の財政圧迫が予想される。これらによって、公共事業に頼るところの大きい地方経済が壊滅する。また、これは単に職だけの問題に留まらず、公共機関での英語の常用が専らとなることによって、英語が我が国の主要言語になってしまう恐れがある。

④東北地方の再生復興の阻害
 TPPによる第一次産業の競争激化は、国内農林漁業の衰退を招くのみならず、中小企業に対して投資に不安を与えることとなるため、第一次産業に負うところが大きい東北地方の復旧・再生を妨げる。また、大震災復興のための土木事業が外国企業に奪われた場合、東北再生の絶好のチャンスが失われる。

⑤郵政資金の国内運用義務の廃止
 現在は1/5までしか認められていない郵政資金の海外運用が100%解禁になる。これによって、国内に再投資されていた350兆円ものお金が海外に流出して国内経済の衰退を招くのみならず、国債の引き受けについて大きな問題が発生する。


3.デフレ不況が更に深刻化し、失業者の増加し、内需が低下する可能性が高い。


 海外から流入する安いモノやサービスによって物価下落が更に進行し、低所得者は恩恵を得たと錯覚するが、給与水準も低下するため、結果的にモノが売れなくなってデフレ不況が更に深刻化する。
海外からの安い製品によって国内企業が倒産して失業者が増加すると共に、国外から流入する労働力によって国内労働者が駆逐され、失業が加速されると考えられる。ひいては、第一次産業を初めとする多くの分野で失業者が急増することが予想され、内需が急速に低下することが危惧される。
 実際、NAFTAが締結されたことで、アメリカでは工場移転による失業者が約52万発生したともいわれ、条約で不利な立場であったメキシコでは、農業部門を中心に少なくとも人口の5分の1の130万人が失業者となった。FTA、TPPによる自由貿易は失業の輸入貿易と言うことができる。


4.例外なき関税撤廃で農業が壊滅する可能性が高く、食料自給率が危険な水準となる。

 農林水産省試算資料によると、食料自給率は39%から13%にまで下がると試算されている。来るべき食糧難の時代に、この自給率では国家の安全は保障できない。さらに、モンサント社の特許種子に農業が依存するようになった場合、食料に関する安全保障は崩壊する。

・遺伝子組換え作物が販売できるようになり、同時に国内における商業栽培が開始される。
→遺伝子組換えの花粉が飛散し、在来の作物を遺伝子汚染する恐れがあるが、一旦汚染された場合、除去は永遠に不可能となる。
・昆虫等による受粉によって在来種の畑に組み替え遺伝子が波及した場合、特許を持つ企業(モンサント社等)は、「特許権侵害」として、在来種使用の農家を訴える。
→種を使用していないにも関わらず、在来種の農家が特許料を支払わされる。
→その結果、農家は毎年モンサント社の種を購入することなり、品種を選ぶ自由を失う。
→将来的に「自家採種の禁止」といったさらに理不尽な事態へも進みかねない。
(参考:アフガニスタンでは既にアメリカによって自家採種が法律で禁止されている。)

※TPPに熱心な日本経済団体連合会の米倉会長は、米国種子大手会社であるモンサント社と長期的協力関係を持つ住友化学株式会社代表取締役会長である。


5.交渉に参加した場合、途中で離脱できないことが明白である。

 交渉参加後、日本にとって不利とわかった場合には離脱すればよいとの論もあるが、不可能であることは明確である。なぜならば、日本に有利でなくても、安全保障を日米安保に依存しきっている以上、関係悪化を避けなくてはならず、不平等な条件を飲まざるを得なくなる。
 実際に、韓国とアメリカのFTA交渉を見ても、途中離脱が不可能であることは実証済みであり、韓国側はアメリカとのFTA交渉について、「主要な争点において、我々が得たものは何もない。すべてアメリカの都合のいいように譲ってやることになった」と表明している。


6.デメリットは数えきれないほどあるが、一般国民にとってのメリットはない。

 米国と日本の関係を考えた場合、米国が関税を無くしたからといって、輸出が増える見込みはない。なぜならば、既に十分に低い関税(アメリカの場合、自動車2.5%、テレビは5%)となっている為であり、生産拠点をアメリカに持つ企業が多い為である。また、日本から輸出する場合、為替がはるかに大きく影響しているため、米国以外のTPP締結国が関税を撤廃したとしても、TPPに為替不均衡是正の条項が無い以上、恩恵を得る事は出来ない。
 ISD条項を、日本企業の海外進出に有利だと見る向きもあるが、理不尽なやり方を強引に押し通す、この手法には倫理上問題があるのみならず、諸外国との友好関係を破綻させ、軍隊を持たない我が国の安全保障を脅かす。

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昭和の日 (aka. みどりの日) を前にして思う事

[昭和の日 みどりの日] ブログ村キーワード

流れる大河のごとく、さりとて田畑を潤す小川のせせらぎを忘れず、
世間の荒波に揉まれて、世間の垢を身にまとい、人の人たるを忘れるその時に
生まれたばかりの赤子が純真無垢であるがごとく
人も、本来は "善" であることを忘れぬように

 
それ故、我々の先祖は命をかけて皇室をお守りしてきた。。。
 
 
金が多いか少ないか、
また、今を基準に、自分を基準にしてしか物事の判断のできない人間が居る以上、
皇室は凛として "善" がどこにあるのか世に示す。
 
 
聞くところによれば、南北朝時代の頃、
御所は朽ち果て、そこかしこに雨漏りしていたとか。。
そんな中でも、その時代を生きた天皇はひたすら "祈っていた" と聞く。
自分のためではなく、国に生きる民のため、そしてこの国のため。
天皇とは、"祈る" という存在に他ならない。。。。。
 
天皇は一視同仁。 そして、無私。
廃止を主張する者を含めて、国に生きる民のために祈る。
 
この国のいつの時代にも、
そのとき、この国には天皇がいらっしゃった
そして、祈っていた。。。
 
 

「人は生まれながらにして善」なのだろうか。
「人は生まれながらにして悪」なのだろうか。

 
 
我が国、我が国民はどちらの考えを取るのだろうか。
 
 
人は生まれながらにして悪だから悪い事をしても仕方がないと考えるか、
人は生まれながらにして善であるから少しずつでも近づかねばならないと考えるか、
 
どちらが国是としてよいであろうか。
 
 
もし人が生まれながらにして悪であるならば、なぜ善を為さねばならないのだろうか。
善を為す理由が見つからない世の中とは、どのようなものになるだろうか。
恐らく、衣食住、そして医を満たし、平安の内に安穏と暮らせる世の中にはなるまい。
 
 
一方、人は生まれながらにして善であると考えるとき、
実在するもの無しに、生まれながらにして善であると説得できるだろうか。
果たして、善の存在を証明できるだろうか。
 
 
 
人は生まれながらにして善であるとし、
衣食住、そして医を満たし、平安の内に安穏と暮らせる世の中を作るために、
善を世に示す存在が必要であり、私はその過酷な役目を皇室に期待したい。
 
 
 
昭和の日を前にして
 
自分が生まれてからの戦後の昭和天皇しか知らないが、そのお姿を思い起こすとき、
ひとときも忘れる事も無く、無私を以て善を世に示されていたように感じる。
昭和天皇の、眼鏡の奥の、あの優しい瞳は、今、何を見つめているのだろうか。。。
 
 
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建国記念の日(紀元節)にあたって

 征服と支配、平定と統治。遠い昔、二千年もの昔に皇祖始め我らの祖先がどのような国の姿を描きつつ国づくりを始めたのだろうか。現在そして未来において我が国はどのような存在であるべきなのだろうか。そもそも我が国が極東のちっぽけな島国に建国されたのはどのような意義があるのだろうか。戦後生まれの私には、今の我が国は建国の目的を忘れて進むべき道を見失っているように見える。
 
 
 征服と支配。平定と統治。
 
 
 皇祖皇宗、そして我らが祖先はどちらを選択して国づくりを行なったのだろうか。戦後人は言う、日本書紀も古事記も作り話だと。しかし、もし仮に作り話だとしても、そこには皇祖皇宗、そして我らが祖先の息吹が込められているはずであって、蔑ろにすべてを否定してよい訳が無い。
 
 
 
 書紀は語る、神武天皇を。兵を進めて東の地を平定するに至るを。帰順の意を示した者を重用し、力に訴えた者を紂するを。
 
 平定の軍であったのだろうか。征服の軍であったのだろうか。
 
 
 
 また、書紀は語る、仁徳天皇を。都を定めて数代。その御代に民が炊ぐ煙が立たぬ事を見、役税を課することを止める。宮は朽ち、雨露に濡るるにおいても、窮する民と共に在り。三年の後、炊ぐ煙の盛んなるを見、「我富めり」と語るに、后、「宮朽ち、雨露に濡るるに何故に」と。これを返して「人君は民に由って立つ。民が窮するは我が身の窮。民の富めるを以て我富めり」と。
 
 支配を目指していたのだろうか。統治を目指していたのであろうか。
 
 
 
 
 
 我が国の国柄の誇りは、君と民に志を共にして力を合わせて治めてゆく君民統治の仕組みであり、統治が支配に変質しないように権威と権力を分離させた智慧にあると思う。しかし、大東亜戦争の敗戦によって、民こそが主人だとする西洋の仕組みが我が国にやってきて六十年。国内は大いに乱れ、目標を失い漂流しているように感じる。
 
 
 
 ローマ帝国の崩壊の後、西洋は征服と支配を繰り返し、西はアメリカ大陸の端に到り、東は極東に到った。西洋がインドと中国で行なった所業を知り、太平の世に暮らしていた我らが先人は、西洋と伍して独立を守るために、和魂を胸に西洋の才を求めて富国強兵を努めた。
 
 
 明治人は和魂を胸に列強に向かっていったが、昭和人はどうであっただろうか。台湾、朝鮮半島、ミクロネシアの島々、そして満州の地に、学校を初めとする各種の建造物を建てて社会整備を行ないつつも、西洋の”支配”に毒されていなかっただろうか。
 
 
 また、国民が二分されつつある現状を憂うるに、西洋の”支配”という考えが我が国を覆い尽くし、国を滅ぼしつつあるような気がしてならない。アジアのみならず、アフリカ大陸、南北アメリカ大陸の先住民に対して行った所業を知る事は、西洋を礼賛するあまりに国を滅ぼす愚を犯さないために必要なのではないのか。
 
 
 
 我が国が目指すは支配に非ず。統治なり。
 民を統べて、共に治める世を出現させることなり。
 
 
 
 我が国の若人よ。これを読みて心に思う者たちよ。
 目覚めよ。
 
 敗戦によって打ち砕かれた我が国の至宝を想い起こせ。
 神話より始まる我が国の歴史を紐解いて新たな息吹を吹き込め。
 
 漂流している暇は無い。
 大東亜戦争の敗戦を越えて、我が国の建国の理想を実現するのだ。
 ”支配”で主であった過去の千年と決別し、民が共に力を合わせる”統治”を世に示すのだ。
 これが未来の千年の目標であって、古の伝統を守ってきた我が国が存在する由縁なのだ。
 
 目覚めよ。

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終戦 靖国 合祀 富田メモ

 富田メモなる出自不明な記事も出て、靖国神社はいつになく喧しい終戦記念日を迎えそうだ。私自身は富田メモを大変疑わしいものと考えている。合祀云々の問題も取るに足りない問題と考える。
 
 
 
== 富田メモ ===============================

 理由は、本来のメモに糊付けしてある頁であること、また、その頁だけ他の頁と著しく青いインクの色が鮮やかであることなどが挙げられる。しかし、テレビで疑わしい点を報道していないし、日経新聞を沈黙しているので、富田メモを疑いなく信じている人も多いことだろう。信じている方は、まずこちらをご覧あれ。

依存症の独り言
 いわゆる「富田メモ」について
 (http://banmakoto.air-nifty.com/blues/2006/07/post_d393.html)

Let's Blow! 毒吐き@てっく
 [昭和天皇のお言葉?]日経富田メモ タレこみネタ
 (http://tech.heteml.jp/2006/07/post_640.html)

Here There and Everywhere
 (画像)富田メモ@昭和天皇発言問題 捏造ですか?>日経さん
 (http://oiradesu.blog7.fc2.com/blog-entry-1359.html)


 終戦記念日と靖国神社とくれば、俗にいうA級戦犯、正確にはA区分戦犯の合祀が問題となる。昨日、テレビでの東條さんの指摘を興味深く聞いた。昭和天皇が御親拝を中止されたのは75年であり、合祀は78年に行なわれたという。テレビ朝日の番組アナウンサーはもちろん、コメンテーターの誰独りとして知らなかった模様だった。そういう私も不勉強の極みだが、大衆に影響を及ぼす立場にいる人間が知らないということに改めて驚いた。


 とすると、富田メモの「だから私あれ以来参拝していない」という記述は矛盾に満ちているし、終戦当時、極東裁判開催の指示がGHQから出た際に”我が国に戦犯というものとはいない。どうしてもというなら戦勝国である連合国が勝手に行えばよい”という言葉を残した昭和天皇ご自身が、「私は或る時に、A級が」などと呼び捨てにすることにも違和感が残る。

 今回の報道で1つだけに気にかかることがある。最初の報道が、なぜ朝日新聞でなくて日経新聞なのか。なぜ、韓国、中国寄りの朝日新聞でなくて米国寄りの日経新聞なのか。。。。。誰か教えてください。
 
 
 
 
== 合祀の問題 ===============================

 突き詰めて考えると、戦犯とは何かという点と、たった数十人が日本の運命を変えた大東亜戦役をもたらしたのかという点に行き着くと思う。

 
 敗戦国側にだけ戦犯は存在するのだろうか。
 事後法によって行われた裁判に正当性はあるだろうか。

 
 そう考えると、極東軍事裁判となるものが如何にでっち上げの茶番劇であったかということがわかる。この茶番劇は「裁判」とは言っているが、その法的根拠無く、GHQが発した裁判所条項のみを根拠としている。(参考 「パル判決書」東京裁判研究会発行 上巻 ISBN 4-06-158623-8 下巻 ISBN 4-06-158624-6、「パール判事の日本無罪論」田中正明著 ISBN 4-09-402506-5、「東京裁判 日本の弁明」小堀桂一郎編 ISBN 4-06-159189-4)また、戦勝国側の行った行為、原爆の投下と綿密に計画された焼夷弾による東京大空襲と名付けられたホロコーストについては一切不問としている。更に言えば、収監された軍人は陸軍のみで海軍関係者がいないことも奇異に映る。この点については、「米内光政と山本五十六は愚将だった」三村文男著(ISBN 4-901331-06-X)が参考になる。


 そのような”裁判”という名の茶番劇に出廷した戦犯とは何?


 話を変えて、我が国がいつ頃からアメリカと対峙するようになったのかを考えると、興味深いことに日露戦争後のポーツマス条約にまで遡ることになると思う。条約において満州の権益を日本は手にしたが、満州の開発を日本一国で行うことに急遽方針転換し、戦時国債について多大な助けを受けたクーンロープ商会のシフと鉄道王ハリマンに対する約束を反古にしたため、米国の金融界を日本は敵に回すことになった。詳細は「日露戦争に投資した男」田畑則重著(ISBN4-10-610143-2)をどうぞ。


 そして、国際連盟に提出した人種差別撤廃条項の否決(参考 http://www004.upp.so-net.ne.jp/teikoku-denmo/no_frame/history/honbun/pm_of_lu.html)により、「国力を蓄えて、欧米に引けを取らない文明化を行えば受け入れてもらえる」と信じていた我が国は大きく失望し、欧米に対する対決姿勢を強めることとなった。


 最終的は、リットン調査団による満州事変に関する報告書への拒否を通して米英との対立が先鋭化していったと思う。当時、アジアでは日本とタイ以外はすべて欧米の植民地となっており、他国を侵略し植民地化することは欧米が率先して行っていた。そのような中で「欧米を同じことを行っているのに、なぜ我が国だけ植民地化の行為を非難されるのか」という疑念を持ったとしても当然のこととを思う。


 そういう大きな時間の流れの中で我が国は戦争という道を辿ることとなったにもかかわらず、大東亜戦役を招いた国家指導者として数十人が訴追されなければならないのか?


 以上を持ってすれば、俗にいう戦犯が合祀されているから参拝を取りやめろとか、分祀しろとかいう議論はくだらないものに思える。そして、戦犯云々を言っている間は、国民一人一人が負うべき過去の負債、つまり日本国の精神的復興という負債に対して、頬冠りをして被害者を装って、すべてを戦犯に擦り付けているようにも感じる。本当に必要なのは、明治、大正、昭和の3つの時代を直視し、我が国が二度と戦火を交えること無しに、東洋において名誉ある地位を獲得するかにあると思う。

 私は、国対国の国際間において極東軍事裁判の判決に疑義を挟まない。理由は、我が国がサンフランシスコ講和条約にて”accept”したから。また、西洋が東洋に対して行った非人道的な行為を忘れたくないから。
 
 
 
 
 今年で61回めの終戦の日を迎える。

 国益のためという偽りの中で再び戦火を交えるか、戦はこれで止めると誓った崇高な理想の実現のために更なる努力を行うか、我が国は大きな岐路に差し掛かる気がする。幕末の植民地化の危機から今日に至る我が国の歴史に思いを馳せながら、明日は静々と靖国神社に参拝に出かけようかと思う訳なのだが。。。


追伸
“なぜ朝日新聞でなくて日経新聞なのか”という疑問について、てっくさんのブログに伏線が載っておりました。てっくさん、ありがとうございます。

Let's Blow! 毒吐き@てっく
 [靖国]報道されなかった米議会決議[いわゆる戦犯]
 (http://tech.heteml.jp/2006/08/post_682.html)
 
 
補足
 文末尾の
>国益のためという偽りの中で再び戦火を交える
とは、将来起きる戦火を指しており、大東亜戦役を国益のためという偽りの中の戦火とするものではありません。念のため。

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君が代よ、永遠なれ。

 君が代は我が国の国歌である。しかし、国歌の歌詞が、古今和歌集の賀歌の筆頭歌(第1首)に載っている事を知っている人は少ない。恐らく、国歌を制定するにあたって作詞されたものと思っている人が多いのだろう。


 書籍「わたくしの国の旗と歌」(ISBN4−88320−180−5)によれば、この和歌にそっくりな初二句のみが異なる歌が二首あるのだという。その和歌では、「我が君は千代にましませ...」、「我が君は千代に八千代に...」で始まる。

 我が国の歴史においては、君という言葉が必ず君主、天皇を意味した言葉であったとは考えづらい。ひらがなには1字1字にそれぞれの意味を持つのだという。不勉強ゆえ、「き」という言葉と「み」という言葉のそれぞれが持つ意味を明確に述べることはできないが、ある程度の憶測と主観を許していただけるならば、恐らく「き」という言葉は、貴に代表されるように”大切な”という意味ではないだろうか。また、「み」とは、身という語のように、本質を表すのだろう。とすると、”きみ”とは、自分の大切なもの、本質という意味に行き着くのではないのだろうか。


 あなたの大切なものは何ですか。
 あなたが守りたいものは何ですか。
 その大切な、守りたいものがずーっと続いていてほしいとは思いませんか。

 私は、君が代の和歌を詠んだ詠み人の動機はそこに在ったように思う。人それぞれ、その大切な、守りたいものは違っていても、それが永く在ってほしいと願う心は同じはず。その心がこの和歌に込められていると私は信じる。


 在る人は言う。君が代の「君」とは戦時中の天皇を意味し、天皇のために命を捧げるための道具になったから、国歌を変えるべきだと。

 しかし、古今和歌集が勅撰されてより、今年で1099年、来年は1100年を数える。国旗でも述べたが、数年間の戦役のために永くこの国で又我らが祖先が口ずみ、慈しんできた、この和歌を否定してよいものだろうか。

 先の戦役に敗戦し、我が国古来の文化は否定されて久しい。今や我が国は、経済的にも、また文化的にも、米国に乗っ取られようとしている。私は、私の祖国であるこの国が、千代に八千代に幾世代にも渡って栄えて欲しいと切に願う。さざれ石が巌となるように、我が国の愛する人々の心が、それがさざれ石のごとくに小さい物であっても、それが集まって巌となって、苔むすほどに永くこの国を見据えてほしいと願う。

 例え、髪を染めても、肌を日焼けさせても、身なりを似せても、私たちは日本人であって、白人にも黒人にも成れない。成れないものに憧れて自分のアイデンティティを捨てることは、奴隷になることに他ならない。私は、今この国に覆いつつあるものに深く憂慮している。


 学校で習った国語の一節で、今も忘れられない話がある。「最後の授業」という話だ。フランスのアルザス/ロレーヌ地方は資源豊富な地域あり、かつドイツの国境に面していたため、フランスとドイツが戦争を行なうたびに、焦点の1つとなっていた地方である。フランスがドイツに負け、この地方でフランス語の授業が禁止され、最後となった授業を話にまとめてある。授業の最後に、教師は生徒に「この授業が最後の授業になりますが、決してフランス語を忘れないでください。フランス語を捨てない限り、われわれはフランス人です。」と語り、黒板に大きく”フランス万歳”と書き記して、泣き崩れたという。


 我が国においては日本語ということとなるが、日本語の心はむしろ、日本語よりも和歌に込められているのではないのだろうか。先祖が「決して忘れるな」と、30文字余1文字に込めた思いを私たちは捨ててしまってよいものだろうか。

 私は、我が国でこのようなことが決して起きてほしいとは思わないが、自分たちの歴史を直視し、糺すべき点は糺しても毅然として未来に目を向けない昨今の風潮を憂う。そんな中で君が代こそは、日本人のDNAに受け継がれている我が国固有の文化を呼び起こす大切な鍵があるような気がしてならない。


 君が代の「君」が天皇を意味するかどうかは、この歌を言挙げする一人一人の心持ちに寄ると思う。別に述べた自分自身と天皇との関係を自らが認めるならば、大切なものの中に天皇が含まれる訳であり、数々ある大切なものと共に天皇に対する賀歌となるだろうけれど、それはあくまで一人一人に依存するものであって、君が代の和歌自身に君=天皇という意味を、私は見いだすことはできない。


 君が代よ、永遠なれ。
 和歌よ、永遠なれ。

 千代に八千代にその文字を、
 この世に現す言の葉の、
 その言霊により我が国を、
 千代に八千代に守り給え。
 異国の者が踏むにじる、
 その時々に至りても、
 決して忘る事無きよう、
 我らの心を示し給え。

 古今の和歌の選び人、
 紀貫之なるその方の
「いまはあすかがわのせになるうらみもきこえず、
 さざれいしのいわおをなるよろこびのみぞあるべき」と、
 願う思いがこの国を、
 千代に八千代に守りますように。

 いまはまだ、たれがしるらんあすかがわ ふちなるけふとて あすはせとなれ。

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日の丸こそは天下一

 戦後、日の丸が毛嫌いされて久しい。現代の日本人にとって祝祭日に国旗を掲揚することは、大東亜戦役の太平洋戦争における敗戦の記憶を思い起こすこととなり、毛嫌いする人が大変多い。しかし、最近、私は日の丸こそは天下一と感じるようになった。

 「わたくしの国と歌」(ISBN4−88320−180−5)によれば、正式に国旗として日の丸が制定されたのは明治であり、その目的は欧米に対して我が国が決して引けを取らないことを明示することにあったと記されている。また、明治時代の制定以前では、江戸の安政元年(1854年)に外国船と日本船のと識別を目的として、薩摩藩主島津公の発議により日本人の船に日の丸を掲げるように幕府からのご下命があったそうだ。それ以前においては、遠く朝廷での政において用いられたことを始まりとして、旗のもつその勢いが各層の人々に受け入れられ浸透していったとも記されている。

 そうしてみると、日の丸という旗は、諸外国からの圧力を交わすため、また内政を切り盛りするというために、軍国化した時にポッと決まった事でないことが判る。お叱りを受けるかもしれないが、敢えて鎌倉幕府の頃に日の丸が使われ始まったとすると、900年程の歴史の中で、節目節目に掲げられ、また江戸時代においては船の安全を確保するために掲げられ、単に戦いを意味するものでは無かった事が判る。その歴史に対して、たかだか8年間の起きた、日本の歴史にしてみればくしゃみの一瞬である大東亜戦役(盧溝橋の事変を暫定的に始まりとし、終戦までの間)に日の丸がよく使われたからと言って、この旗を捨てることは賢い振舞いだろうか。この旗には、我らが祖先の900年以上の日本人の愛着が染み付いている旗なのである。


 一方、自分にとって「天皇」がどのような存在であるかと考えた末、私は「日の丸」という旗の、その勢いの源泉を知った。

 日の丸の「白」は善、清を意味すると私は思う。また、その「赤」は、古来日本人が大切にしてきた「誠実」を意味すると思う。つまり、清い心で善を目指し、誠実を以て隣人に接するという我らが祖先が目指したものを、旗に表現したものを私は信ずる。また、丸でなくてはならず、三角形でも四角形でも星形でもいけない。なぜなら協調、協力を大切にしてきた日本人の本質に合致しないからだ。

 また、天皇という存在が、人間の善、清さがこの世に存在する証と考えるならば、白地こそは天皇を意味し、赤い丸はその善と清さがこの世に存在することを信じ、これを守るという日本人の誠実な心の現れのようにも感じる。これは、この国が建国された意義を、建国後の長い歴史の中で今はもうその建国の意義を知ることができない現代においても、旗を見る者に脈々と受け継がれてきた日本人のDNAに訴え、想起させてくる気がしてならない。


 ある者は言う。忌まわしい戦争の記憶を忘れるために旗を変えろと。また、在る者は言う。他国の旗と比べると色彩に乏しくて貧弱に見えると。

 しかし、旗を変えても記憶を忘れることはできない。私たちに必要なのは、旗を捨てて自分を捨て、忘れることのできないことを追い求めることではなく、むしろ、決して忘れずに同じ轍を踏む事無く、我が国が遠く建国された意義を思い起こし、その意義をこの世に広く知らしめる別の道を模索することだろうと思う。そのためには、くじけそうになった時に我が国の建国の意義を思い出す事のできる、この旗を愛することは大切だと思う。

 また、世界万国の旗の中に於いても日の丸が貧弱であるとは思わない。子供の頃、運動会には万国旗が掲げられた。数多、多彩な色使いの旗のひしめく中で毅然として、白と赤だけの、それも白地に赤丸の日の丸こそは、ひしめく旗の中においても、一際その存在を主張しているように感じる。


 我が家においても言えることだが、最近はマンション、アパートに住むことの多くなった現代人にとっては大きすぎて、また、大きさ故に街宣車で町中を走る一団と同一視されそうで、一般に販売されている日の丸国旗を掲揚することに抵抗を示してしまう。私個人としては、自分の戸口や背丈に合うようなこじんまりとした国旗を控えめに祝日祭日の節目に掲揚したい。私はこれを「ブチ国旗掲揚運動」と称したい。各々方、如何なりや。

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天皇という存在 ー私論 天皇論ー

 我が国の天皇という存在は、世界万国を見回しても唯一の存在で、類を見ない存在である。

 1つめには、遠い昔より我が国の歴史と共に、男系の血筋により綿々と受け継がれた存在であること、2つめには、歴史の時々に我が国を統治する権力者を認めつつも、その権力者は天皇に対しては臣下の礼をとっていたこと、つまり実質的には権力者に国内統治を認めながらも、精神的な面からは常に日本を束ねていた存在であること、3つめには、イギリス王室のような戦いによる征服でかち合えた領土を支配するような存在ではなく、多くの場合、その徳に触れ、その徳に敬服し、その徳に従うことを善しとする者達により、推挙されて「束ねる」存在となったことを挙げることができると思う。


 どうして天皇はこれまで我が国の歴史の中で綿々と代を重ねることができたのだろうか。また、天皇という存在は、我が国においてこれまでどのような存在であったのだろうか。我が国が個性と誇りを失いつつ崩壊の危機に面している今、私は深く国を憂い、街角のビルの片隅で段ボールに包まって朝を迎える者達を憂い、次世代を担う子らの行く末とこの国の未来を憂う。

 その憂いは、歴史の中に於いても、我が国が国として定まらずに国づくりに励んでいた時代の将来への憂いに通じるだろう。また、戦乱に明け暮れて屍だけが野を埋めた時代の憂いにも通じるものがあろう。そして、アジアの諸国が植民地として征服されたと聞く中で、見た事も無い鉄の船が突如現れて我が国を揺さぶったときの憂いにも通じるものがあるだろう。そう思うと、歴史のその時々に、我らが祖先も憂いの中で、天皇という存在がいかなるものかを考えたに違いない。


 今、我らは国に自信を無くし、民族としての自信を無くし、欧米の為すがままである。テレビのニュースでは毎日殺人のニュースを聞かされ、ドラマは人を殺して幕を開ける。まさに、人間は本来悪であり、金がすべての世の中であると考えるように仕向けられ、本気でそう感じるようになってしまったように感じる。

 私はそんな中でも、人間は本来善であって清いものであると信じたい。この世に生きてゆくなかで、人は罪を犯し、人の道を外れる。しかし、それは、生きてゆくことが誰にも保証されず、自分で手にいれる他に無いことに由来するものであって、もし誰もが生きてゆく事を満たされるならば、本来の善、清さは誰の元に現れてくるのだと信じる。


 しかし、それをどのように証明するべきなのだろうか。そう思う時、我が国の天皇という存在の意味と、我が国の歴史の中で脈々と息づき、そして時の為政者が守ってきた理由を知った。

 私が思うに、我らが祖は、人の善を最も良く知る一族に、いかなる時代においても人は善であって清いものであることを現してほしいと願い、天皇と言う存在を我が国に生み出して守ってきたに違いないと考える。それは、この世で生きていくという過程で忘れてしまいそうな善の自覚と清い心を持つことを、天皇という存在を通して再確認することであり、心の中の「善」「清」の鏡移し、あるいは自らの姿を映す鏡とも呼べる。つまり、私にとって、天皇とは私の中の「善」そのものであり、「清」そのものであって、両者を分つ事はできず、天皇は私の心の一部である。また、その鏡に我が身を映す時、如何に我が身が汚れているかを知る。


 このように考えると、天皇位に就くものが無私無欲の存在を目指し、至高の存在を目指し、我が国最高の祭祀としての任を全うする理由も自ずと理解できる。

 そう思う時、どうして天皇を守らずには居られようか。それは我が心の善そのものである。どうしてそれを汚す者達を許せようか。それは我が誇りへの侮辱である。きっと、この気持ちこそが我が国の歴史の幾多の戦乱をかいくぐっても天皇制が受け継がれてきた理由であり、我らの祖が命を賭しても守ってきた原動力であると堅く信じる。


 我が国が深刻な危機を迎えた今、この国が建国された頃に立ち戻って、その建国の意味を再確認し、単に先の戦争だけに捕われて論ずるのではなく、古く我が国の歴史の中で天皇が為した、その役割を再認識することが必要だろうと思う。

 私が思うに、我が国の建国の目的は、教育勅語に在る「国を肇むること宏遠に、徳を樹つること深厚なり」という言葉が物語っていると思う。また、天皇が為した役割とは、仁徳天皇の故事を思い起こすことが良いかと思う。

 このように我が国においては天皇と国民は魂の根幹で互いが繋がっている存在であるが、もし仮に天皇家がイギリスを初めとする欧州の王族のような立場に憧れ、本来の意義を見失うならば、それは天皇家のみならず我らにとっても大きな不幸の到来を意味する事になるだろうと思う。


 最後に、一つだけ良く心得ておくべきことが有ると思う。この国を守るという口実で安易に武力に訴えることは慎むべきであろうし、その口実の盾に他国の国益のために我が国の国民が血を流す事を決して許すべきではないだろう。この国の諸々の民を守る為に、また自分の善の象徴である天皇を守る為に、やむを得ず武力によって我が身を守ることは許されても、決して云われの無い理由を口実に一国を攻め滅ぼすことは断じて行なうべきではない。武力を以て征服するのではなく、徳をもって集うことを善しと承服させることを以て、我が国建国の意義を更に宏遠なものとすべきである。


追伸

 今上天皇を以て、天皇は125代(明治以前の数えでは124代)を重ねるという。

 私がこの世に存在するためには父母の2人が在って、父母が在る為にはそれぞれに両親が必要である。つまり、4人の人間が在った訳で、2代を重ねるために4人(=2の2乗)の祖を持つ。そう考える時、125代を重ねるためにどれだけの祖が必要であろうか。

 天皇2代を以て、国民の世代が1つ重なると考えれば、2の62乗となるかと思う。(もし間違っている場合は、ご指摘いただきたい)何と4.61x(10の18乗)となる。現在の我が国の人口を1億2千万として、えいやと計算すると384億倍となる。ちょっと僭越なことであるが、日本史の教科書に必ず載っている推古天皇を起点として考えても、推古天皇が35代(明治以前の数えでは34代)であるから、2の45乗、つまり約35兆人となる。ともあれ、これでも膨大な人数となる。

 とある小学校の先生の逸話を紹介したい。詳しい一語一句は忘れてしまったが、おおよそ、こんな話だったと思う。「皆さんにはそれぞれにご先祖さまが居て、天皇陛下と共にこの世を生きていたと考えると、ご先祖様の人数はとっても沢山になります。自分の隣に座っている人とも、日本人であれば誰とでも、いつの時代か御先祖様が一緒のときがあったと言えるのではないのでしょうか。だから、皆さん!お互いに仲良くしなければいけませんよ〜」と生徒に話しかけたと聞く。

 世知が無い世の中になってしまったが、そんな中でも国民同士の助け合いの精神を思い出したいと思う。

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「勝ち犬、負け犬」? 「勝ち組、負け組」?

いつも御邪魔している瀬戸さんのコラム「負け犬、勝ち犬論争について思うこと」について、ちょっとコメントを...

まず最初に、私の「勝ち犬、負け犬」感から。
私は犬ではありませんので、人をそのように例えたくは無いです。いずれを取るにしても、自分を卑屈化しているような気がします。

次に、勝者については「驕れるものも久しからず」、敗者については「痩せ蛙 負けるな一茶 ここにあり」と感じです。

瀬戸さんのコラムで、ちょっと残念に感じたことがあります。

>女の人は未婚であろうと、既婚であろうと、
>人生の生きがい、幸せと結婚との天秤を測らなければならない

とのことですが、私は、生き甲斐と幸せ 対 結婚という構図で、結婚を考えていただきたくないなと願っております。私自身は、夫が外に出て働き、妻は家で働くのが良いと考えています。私が女性であり妻だった仮定として、疲れて帰ってきて玄関を開けたら、むさ苦しいおやじっちが「はぁい〜、おかえり」と出迎えた日には、ぶち切れてちゃぶ台ひっくり返してしまいます。(爆)

そう言うと、フェミニズム、ジェンダーフリーを標榜する女史の皆さんは聞き捨てならんと御感じでしょうが、私は、男性には出来なくて女性にしか出来ないことが世の中に有る以上、そこに両性の違いを認めるべきだと考えています。私は、女性を尊敬していますけど。
また、「女性を家に繋ぎ止めて」と、これらの女史の方々は私を責めるかもしれません。でも、どうしても私には妻に家に居てもらわねばならんのです。

その理由はいくつか有りますが、

1)食文化の荒廃を糺すには、日本古来のお米と野菜を中心とした食文化、和食を再発見する必要があると考えて居りますが、人工調味料に頼ったりせずに本物志向を目指すと、和食を作ることは非常に時間がかかる為です。そうすると共働きでは到底無理です。

2)外で働いていると、余暇の時間が取れずに、どうしても市民としての義務、例えば時事についての見識や選挙の際の投票の意思決定、ニュースに対する世論の動向、最近の話題などに疎くなってしまいます。また昨今は情報過多と言われる時代です。そのため妻には、外で働く夫の良き頭脳として情報の収集と洗濯(必要な情報を深め、不用な情報を捨てること)を御願いしたい為です。

3)ちゃんと躾の行き届いた子供に育ててほしいからです。やはり、すくなくとも片親は子供の側に居て、厳しく躾けてほしいと思っている為です。


子供達が不躾になった →
 → (その不躾な子供達が大きくなって)→
  → 子供達が被害者となる事件、犯罪の低年齢化が顕著になった

と考えるためです。

この現象は、フェミニズム、ジェンダーフリーを標榜し、働く女性や男性女性間の性差の無視を薦めたことにも原因の一端があるように私には思います。


さて、次に「未婚、子なし、30代以上の女性」について。

もしそうであるとしても卑屈になる必要はないと思います。少なくとも「負け犬の遠吠え」を著作した酒井順子女史は、卑屈になる必要は全くないでしょう。
人として死ぬ前に行なうべき事として、

1)子供を育てること
2)木を植えること
3)本を書く事
の3つを教えてもらいました。これらはどれも次世代への贈り物です。どれも大変なことですが、女史はすでに1つを成し遂げた訳です。どうして卑屈になる必要があるでしょうか。また、一般の「未婚、子なし、30代以上」の女性についても、昨今の社会情勢を考えれば、果たして結婚すること、子供を設けることが、果たして自分と相方に取って幸せなことか議論が分かれると思います。「未婚、子なし、30代以上」の男性だって、それなりに風当たりがあって大変です。(経験者語る..)死ぬ前に次世代に対して何かしらの贈り物ができれば、自分の人生に満足できると思います。
すべては死ぬ時に決まるものであって、その道中で卑屈になる必要など全く無い!

ただ、金持ちの相手がいないからとか、自分より馬鹿な男ばかりだからという理由で結婚しないことについては、私はそんな彼女を軽蔑します。

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大和撫子を守らねば!

曽我さんの、毅然とした、そして礼儀正しい振る舞いに感銘を受けました。

2家族のお子さんが帰国するという発表の中で、その2家族に対して祝福の言葉を述べ、そして、ご家族が北朝鮮に残ることになったにも関わらず、小泉首相に対して礼を尽くす。そんな貴方の振る舞いに感銘を受けました。昨今、日本人の心が失われたという中で、久々に大和撫子を見た気がします。しかし、大和撫子が可憐であるにも関わらず、その今の境遇を思う時、何とも痛々しく、悲しみで私の胸は一杯です。

瀬戸さんのコラム「曽我さん、応援しています。」同様、私も応援しています。否、尊敬しています。そして、尊敬する貴方の願いが叶うように、出来る限りのことを試みたいと思っています。
また、曽我さんのご一家が安心して日本で暮らしていただくには、私のコラム「ジェンキンスさんの意思はどうなるの」や、オトーピーさんのコラム「ジェンキンスさんを守る覚悟はあるのか」でも述べられているように、「米国に逆らってでも自分たちが保護します」という覚悟を、国民全体の総意とすることが必要と感じております。

しかし、それは日本が米国と袂を分かつことを意味し、日本が真剣に自立について考えることを意味することなのですが....

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