女性宮家問題と旧皇族復帰について

 女性宮家の創設を民主党政権は画策しているが、皇籍離脱中の皇族方の考えを竹田恒泰氏が公式にお伝えになったので、お知らせする


【竹田恒泰】女性宮家問題と旧皇族復帰について[桜H24/1/30]

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 民主党内で画策している輩は、”女性”と言っているが、これは言葉のまやかしである。女系天皇の問題の際にはっきりした通り、「皇族以外の男子を父に持つ人間による継承は雑系になる」という点を再度思い出して欲しい。

 つまり、母親が皇族であっても、皇族以外の男子を父に持つ人間が宮家を継承すれば、男系継承の伝統はまず宮家で途絶えることとなり、ひいては、皇位継承においても男系継承の伝統が途絶えることとなる。

 なぜならば、宮家であっても男子がお生まれになれば、皇位継承権を得ることになる。つまり、男系継承の伝統を逸脱した人間が、皇位継承を行うことも起こりうるわけであり、これは即ち雑系(女系)天皇の誕生となるからである。

※男系継承=父親を辿ってゆくと皇統譜にある天皇の御方いづれかに辿り着くということ。日本書紀によれば神武天皇から2672年間、また短く見積もっても約1600年間、今上天皇に至るまで、皇位の継承は男系継承を守ってきている。男系継承の原則でいづかの天皇に辿り着けない天皇が即位した場合、血筋が異なることとなる。西洋の考え方では、男子が異なる血筋となると王朝が交代したと見なす。現在、最古・最長の王族は日本の皇室であり、世界中の王族から敬われる立場にいらっしゃるが、血筋が異なる天皇が即位した場合は日本の皇室は一番新しくなり、諸外国の王族に敬意を払う立場に変わる。

 女系を認めると民間から男を皇室に入れることができるようになる。裏を返すと、男系継承とは、皇族以外の男子を差別して皇族に成る事を阻止する原則であるとも言える。つまり、これは、時の権力者が皇室に入り込んで権威をも簒奪することを阻止する為の我々日本民族の智慧であり、権威と権力を分離する事によって、私欲を満たすことのみを考える権力者の暴走を防ぐための最後の防波堤とも言えよう。

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女性宮家、否、女系宮家創設の謀を討て

由々しき事態の始まりと思う。女性宮家と言っているが、実際、女系宮家の創設である。将来、女系宮家から親王殿下が誕生した場合、皇位継承者になることは必至。即位の暁には女系天皇の誕生となる。

日本書紀に基づき皇室の話をする。大きな樹と考えて欲しい。その樹の背丈は、2671年である。神武天皇を根幹に、宮家という枝を四方八方に伸ばしながら、今日まで時を紡いできた、と言える。

皇室のいう大樹は、男系継承という大原則を元に天皇位を継承してきた。天皇位の継承は、大樹の枝が年ごとに芽をふき、枝を伸ばしてゆくことに例えられる。そして、伸びた枝が枯れたり、折れたりしたとき、継承は大樹の別の枝が担う事になる。それ故、主流と傍流、本家と分家、天皇家と宮家という区別は本来馴染まない。

終戦時にGHQが行った事は、日本人が大切に守って来た皇室という名の大樹の枝の内、11本を無惨に切り落としたことである。私は、すべてはここから起因しており、諸々の問題の解決には、この間違いを糺すことが必要だと思う。

女性宮家と聞き、賛成する人が多いようであるが、一言言っておきたい。

女性宮家と言いながらも、政府の行おうとしていることは女系宮家の創設に他ならない。天皇位の継承を1つの家系が担えなくなった時、別の家系、つまり宮家が引き継ぐこととなる。その場合、女系宮家が引き継ぐこととなれば、6年ほど前に持ち上がった女系天皇の擁立を認めることとに他ならない。

また、皇族方の中に、男系で皇統継承をしてきた方々と、2671年間守って来たしきたりを破って作られた、にわか仕立ての女系を元とした人間が皇室の中で存在しえるものだろうか。私は不可能であろうと思う。

むしろ、我々が成さねばならないことは、GHQを否定して、GHQの野蛮な行いを糺すことにあると思う。
それはすなわち、皇籍離脱中の11宮家(現8宮家)の方々のご帰還をお願いすることに他ならない。今、皇室という名の大樹が危機的状況を迎えつつ在るのは、「終戦時の間違いを糺せ。日本人としての伝統と歴史を取り戻し、自信を取り戻せ」という天からの声のように聞こえてならない。

時々、鎌倉の鶴岡八幡宮の大銀杏が倒壊したのは、国民の神仏を慕う心を銀杏が感じる事ができなくなったためではなかろうか、と思うことがある。

11月25日、産經新聞の記事を読むと、読売新聞が勝手に宮内庁の名前を使って記事をねつ造したことは明らかである。読売新聞ボイコットと、女系宮家創設のための典範改定を阻止すべく行動を起こすべきである。


11月25日産經新聞記事からの引用
一方、宮内庁が女性皇族による「女性宮家」創設の検討を野田首相に要請したとする25日付の読売新聞の報道については 「具体的な制度創設の検討を要請されたものではない」と否定。羽毛田氏も同日、報道各社の取材に対し「(野田首相に)状況を 説明しただけ。具体的な選択肢を言うのは、宮内庁としては出過ぎたことだ」と語り、首相に女性宮家の創設の検討を要請したり、選択肢として示したりしたことはないと否定した。
http://sankei.jp.msn.com/politics/news/111125/plc11112511290009-n1.htm

12月4日追記:報道ステーション(Sunday)での櫻井よしこ氏と長野智子アナウンサーとの対談において、朝日新聞も産經新聞と同様の説明を宮内庁長官から得たと報道された。

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Photo

語られなかった皇族たちの真実
若き末裔が初めて明かす「皇室が2000年続いた理由」
竹田 恒泰【著】

電子版/文庫版 -----------------
小学館 (2011/02/09 出版)
317p / 15cm / A6判
ISBN: 9784094085907
NDC分類: 288.4
価格: ¥649 (税込)
http://bookweb.kinokuniya.co.jp/htm/4094085904.html
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装丁版 ---------------------------
小学館 (2006/01/10 出版)
255p / 19cm / B6判
ISBN: 9784093876254
NDC分類: 288.4
価格: ¥1,365 (税込)
http://bookweb.kinokuniya.co.jp/htm/4093876258.html
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昭和の日 (aka. みどりの日) を前にして思う事

[昭和の日 みどりの日] ブログ村キーワード

流れる大河のごとく、さりとて田畑を潤す小川のせせらぎを忘れず、
世間の荒波に揉まれて、世間の垢を身にまとい、人の人たるを忘れるその時に
生まれたばかりの赤子が純真無垢であるがごとく
人も、本来は "善" であることを忘れぬように

 
それ故、我々の先祖は命をかけて皇室をお守りしてきた。。。
 
 
金が多いか少ないか、
また、今を基準に、自分を基準にしてしか物事の判断のできない人間が居る以上、
皇室は凛として "善" がどこにあるのか世に示す。
 
 
聞くところによれば、南北朝時代の頃、
御所は朽ち果て、そこかしこに雨漏りしていたとか。。
そんな中でも、その時代を生きた天皇はひたすら "祈っていた" と聞く。
自分のためではなく、国に生きる民のため、そしてこの国のため。
天皇とは、"祈る" という存在に他ならない。。。。。
 
天皇は一視同仁。 そして、無私。
廃止を主張する者を含めて、国に生きる民のために祈る。
 
この国のいつの時代にも、
そのとき、この国には天皇がいらっしゃった
そして、祈っていた。。。
 
 

「人は生まれながらにして善」なのだろうか。
「人は生まれながらにして悪」なのだろうか。

 
 
我が国、我が国民はどちらの考えを取るのだろうか。
 
 
人は生まれながらにして悪だから悪い事をしても仕方がないと考えるか、
人は生まれながらにして善であるから少しずつでも近づかねばならないと考えるか、
 
どちらが国是としてよいであろうか。
 
 
もし人が生まれながらにして悪であるならば、なぜ善を為さねばならないのだろうか。
善を為す理由が見つからない世の中とは、どのようなものになるだろうか。
恐らく、衣食住、そして医を満たし、平安の内に安穏と暮らせる世の中にはなるまい。
 
 
一方、人は生まれながらにして善であると考えるとき、
実在するもの無しに、生まれながらにして善であると説得できるだろうか。
果たして、善の存在を証明できるだろうか。
 
 
 
人は生まれながらにして善であるとし、
衣食住、そして医を満たし、平安の内に安穏と暮らせる世の中を作るために、
善を世に示す存在が必要であり、私はその過酷な役目を皇室に期待したい。
 
 
 
昭和の日を前にして
 
自分が生まれてからの戦後の昭和天皇しか知らないが、そのお姿を思い起こすとき、
ひとときも忘れる事も無く、無私を以て善を世に示されていたように感じる。
昭和天皇の、眼鏡の奥の、あの優しい瞳は、今、何を見つめているのだろうか。。。
 
 
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建国記念の日(紀元節)にあたって

 征服と支配、平定と統治。遠い昔、二千年もの昔に皇祖始め我らの祖先がどのような国の姿を描きつつ国づくりを始めたのだろうか。現在そして未来において我が国はどのような存在であるべきなのだろうか。そもそも我が国が極東のちっぽけな島国に建国されたのはどのような意義があるのだろうか。戦後生まれの私には、今の我が国は建国の目的を忘れて進むべき道を見失っているように見える。
 
 
 征服と支配。平定と統治。
 
 
 皇祖皇宗、そして我らが祖先はどちらを選択して国づくりを行なったのだろうか。戦後人は言う、日本書紀も古事記も作り話だと。しかし、もし仮に作り話だとしても、そこには皇祖皇宗、そして我らが祖先の息吹が込められているはずであって、蔑ろにすべてを否定してよい訳が無い。
 
 
 
 書紀は語る、神武天皇を。兵を進めて東の地を平定するに至るを。帰順の意を示した者を重用し、力に訴えた者を紂するを。
 
 平定の軍であったのだろうか。征服の軍であったのだろうか。
 
 
 
 また、書紀は語る、仁徳天皇を。都を定めて数代。その御代に民が炊ぐ煙が立たぬ事を見、役税を課することを止める。宮は朽ち、雨露に濡るるにおいても、窮する民と共に在り。三年の後、炊ぐ煙の盛んなるを見、「我富めり」と語るに、后、「宮朽ち、雨露に濡るるに何故に」と。これを返して「人君は民に由って立つ。民が窮するは我が身の窮。民の富めるを以て我富めり」と。
 
 支配を目指していたのだろうか。統治を目指していたのであろうか。
 
 
 
 
 
 我が国の国柄の誇りは、君と民に志を共にして力を合わせて治めてゆく君民統治の仕組みであり、統治が支配に変質しないように権威と権力を分離させた智慧にあると思う。しかし、大東亜戦争の敗戦によって、民こそが主人だとする西洋の仕組みが我が国にやってきて六十年。国内は大いに乱れ、目標を失い漂流しているように感じる。
 
 
 
 ローマ帝国の崩壊の後、西洋は征服と支配を繰り返し、西はアメリカ大陸の端に到り、東は極東に到った。西洋がインドと中国で行なった所業を知り、太平の世に暮らしていた我らが先人は、西洋と伍して独立を守るために、和魂を胸に西洋の才を求めて富国強兵を努めた。
 
 
 明治人は和魂を胸に列強に向かっていったが、昭和人はどうであっただろうか。台湾、朝鮮半島、ミクロネシアの島々、そして満州の地に、学校を初めとする各種の建造物を建てて社会整備を行ないつつも、西洋の”支配”に毒されていなかっただろうか。
 
 
 また、国民が二分されつつある現状を憂うるに、西洋の”支配”という考えが我が国を覆い尽くし、国を滅ぼしつつあるような気がしてならない。アジアのみならず、アフリカ大陸、南北アメリカ大陸の先住民に対して行った所業を知る事は、西洋を礼賛するあまりに国を滅ぼす愚を犯さないために必要なのではないのか。
 
 
 
 我が国が目指すは支配に非ず。統治なり。
 民を統べて、共に治める世を出現させることなり。
 
 
 
 我が国の若人よ。これを読みて心に思う者たちよ。
 目覚めよ。
 
 敗戦によって打ち砕かれた我が国の至宝を想い起こせ。
 神話より始まる我が国の歴史を紐解いて新たな息吹を吹き込め。
 
 漂流している暇は無い。
 大東亜戦争の敗戦を越えて、我が国の建国の理想を実現するのだ。
 ”支配”で主であった過去の千年と決別し、民が共に力を合わせる”統治”を世に示すのだ。
 これが未来の千年の目標であって、古の伝統を守ってきた我が国が存在する由縁なのだ。
 
 目覚めよ。

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皇室典範改正問題 諸君!田中氏論文の疑問点

諸君!3月号掲載の田中氏の論文に意義あり! 重要な問題点を提起したい。


田中 卓氏の論文を読んでみたところ、焦点と考えられる項目は、

「[9]女帝は歴史上存在し、大宝令でも認められている」という項であろうと思う。

そこには、

----------抜粋の始まり

過去の日本で、実施に皇統が「男系男子」を基本としていることは間違いない。しかしその一方で、例外もあり、「女帝」が実際に存在されたこと(推古天皇をはじめ後桜町天皇まで、十代御八方)も、明白な歴史上の事実である。また大宝令でも「女帝」の存在を認められていて(但し、その女帝は四世以上の諸王を夫とされる。)

----------抜粋の終わり

とある。

ここで、女帝とは四世以上の諸王を夫とすると規定されており、遠い古より約二千年間、内親王が皇族以外と婚姻した場合には臣籍降下することとなっていることを踏まえると、四世以上の諸王はすべて男系男子と考えることができる。

つまり、継嗣令で言う女帝とは男系男子である四世以上の諸王を夫とすると考えることができる。

一方、今回の有識者会議の案を見ると、内親王は婚姻後も皇族として残ることができ、且つ配偶者にも皇族としての地位を与えるとある。これまで、天皇、皇太子、親王が皇族外から配偶者を迎えたことを考えれば、内親王も皇族外から配偶者を迎えることが予想される。


よって、今回の有識者会議がまとめた案により典範が改正された場合、

男系男子でない四世以上の諸王が誕生する

こととなり、以上を踏まえると、田中氏の論文は、


大宝令の継嗣令で規定された本来の意味から大きく踏みはずしてしまい、今回の有識者会議の改正案でいう「女系天皇」を支持する根拠としては不適格ではないのか

という点が大きな疑問点として浮かび上がる。

なお、この疑問は、私のつたない知識から発生したものであり、論理的に間違っていることも否定できない。その場合はコメントにてご指摘いただけると幸いである。


ちなみに、私自身は、皇位の継承者の範囲の変更は継承順位の決定と本質的に異なる判断を要し、皇室の尊厳や権威、そして皇室の根幹に関わる問題であるため、皇室典範の第1章第3条が適用されないことは元より、継承者の範囲の変更はGHQによる暗黙的強制によって皇籍を離脱された旧宮家を含めた皇族方のみで構成される皇族会議によって決せられるべきという立場を取る。また、この決定に基づく皇室典範の改正のみを政治的事項と考える。

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貴方の家の相続に口出しします!

貴方は、自分の財産の相続や自分の家の相続に対して、他人が口出しをして平気でいることができますか?

もし、私が「


貴方の家は跡取りが居ないので、私が勝手に決めますから従って下さい

」と一方的に通告した場合、皆さんはどうお感じになりますか。


私は、今、世間で物議を醸し出している皇室典範の改正についても同じ事が言えると思う。この点を真っ先に疑問視する評論家、コメンテーター、論客が居ない事は、日本のジャーナリズムのレベルを如実に表しているのではないのだろうか。


女系天皇非容認派の方々は、「男系の血筋によって綿々と伝えられてきた皇統の継承を蔑ろにすることは許せないし、こんな短期間で結論づけることは危険である。また、女系の血筋の即位を認めるならば、天皇制は崩壊する」という。

もっとな意見だと思う。特に2660年余続いてきた皇統継承の伝統を、たった1年や2年で壊すことは、改正でもないし、改革などではない。破壊である!

しかし、敬っている皇室に対して、皇統の継承という重大事を、皇族以外の立場で論ずることを恐れ多いことと感じないのだろうか?


一方、改正賛成派、あるいは権力にすり寄る方々は、「このままでは皇位を継承することができなくなり、天皇がこの国から居なくなってしまう。皇位を継承を確実にするために女系の血筋も認めるべきだ」と唱える。

前半はもっともな意見だと思う。まさに一大事である。日本という国の、文化的伝統的な土台を皇室並びに皇族が綿々と守ってきたことを考えれば、「跡絶える」ということは一大事である。

しかし、女系の血筋の即位を認めることは、時の権力者や一代で財を成した成金達が、王として、この国に君臨する道を開く事となる点を考えているのだろうか。この点を自民党の改正推進派は論じないし、マスコミも報じていない。

挙げ句の果てには、「仮に愛子さまが天皇になられた時に、そのお子さんが男でも(天皇への即位を)認めないということだ。それを分かって反対しているのか」と発言する始末。この発言を行なった人間は、未だに女系と男系の区別がつかない様子だし、この段に及んでこのような発言を行なうことに知識、知能のレベルの水準を疑わざるを得ない。

端的な例を言えば、H某というものが、一代にして財を築き、権力を手に入れ、それをてこに継承権を持つ女性皇族と結婚し、自分の息子、娘を王に据えることができるということになる。もし、結婚後、あるいは息子、娘が王位に就いた後、このH某が法的に、あるいは人道的に許されない罪を犯していたという事態も起こりうる。

そのような場合でも、あなたは、王位に就いた息子、娘を王として認めることができるか?


皆さん、いかがですか?


さて、この問題。論じる前に、改正賛成派、改正反対派と共に大きな忘れ物をしているように思う。


改正賛成派については、日頃、人権がどうだとか、憲法改正反対を唱えている割には、皇族の発言を政治的だとして封じられていることに対して言論の自由を認めないと意義を唱えないことは腑に落ちないし、また、なるほどと納得するような理由もなしに憲法については断固反対を貫いている割には典範改正に対して諸手を挙げて賛成することも腑に落ちない。


改正反対派については、皇室、皇族の方々に御発言頂ける場を設けることを蔑ろにして、賛成派と同様に継承云々を論じるのは如何なものだろうか。果たして、それは、臣下の礼を取る者の振る舞いだろうか。


皇位継承に対する私の意見は、以下の通りである。

冒頭でも論じたように、この問題は本質的に皇室、皇族の方々が決すべき事柄である。

政治的問題ではない!

政治的問題とは、決された結論を実施する際の、法律的な問題又は実施を阻害する問題であると考える。

それ故、皇族の方々が一同に会して皇族会議を開催し、全員の賛成を以て決せされた結論を国民にお伝え頂きたいと思う。ただし、この会議には、通常の皇室会議で出席を許されている衆議院議長、衆議院副議長、参議院議長、参議院副議長、内閣総理大臣、宮内庁長官、最高裁判所長官、最高裁判所判事の皇族以外の人間は除外し、戦後GHQによって強制的に皇籍離脱を余儀なくされた旧11宮家の方を含めることが前提と考える。


私は、皇室、皇族を敬う人間である以上、
その会議が10年、20年続こうと、私は皇室並びに皇族の方々のお言葉を待ち、
皇室並び皇族の方々が決せられた結論に従い、実現に向けて努力するのみです。

ただ、皇族会議で結論が決されない場合、あるいは、もし、仮に、皇統継承の伝統を捨てて、女系の継承をお認めになる場合、一旦三種の神器を伊勢の神宮にお戻しになられますように、謹んでお願い奉る次第です。

私は、皇族の方々の未来に対して、こうあるべきとか、こうすべきとは申し上げることは出来ません。

ただ、


謹んでお願い奉り、
詔を承けては、これを謹む

のみです。

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天皇という存在 ー私論 天皇論ー

 我が国の天皇という存在は、世界万国を見回しても唯一の存在で、類を見ない存在である。

 1つめには、遠い昔より我が国の歴史と共に、男系の血筋により綿々と受け継がれた存在であること、2つめには、歴史の時々に我が国を統治する権力者を認めつつも、その権力者は天皇に対しては臣下の礼をとっていたこと、つまり実質的には権力者に国内統治を認めながらも、精神的な面からは常に日本を束ねていた存在であること、3つめには、イギリス王室のような戦いによる征服でかち合えた領土を支配するような存在ではなく、多くの場合、その徳に触れ、その徳に敬服し、その徳に従うことを善しとする者達により、推挙されて「束ねる」存在となったことを挙げることができると思う。


 どうして天皇はこれまで我が国の歴史の中で綿々と代を重ねることができたのだろうか。また、天皇という存在は、我が国においてこれまでどのような存在であったのだろうか。我が国が個性と誇りを失いつつ崩壊の危機に面している今、私は深く国を憂い、街角のビルの片隅で段ボールに包まって朝を迎える者達を憂い、次世代を担う子らの行く末とこの国の未来を憂う。

 その憂いは、歴史の中に於いても、我が国が国として定まらずに国づくりに励んでいた時代の将来への憂いに通じるだろう。また、戦乱に明け暮れて屍だけが野を埋めた時代の憂いにも通じるものがあろう。そして、アジアの諸国が植民地として征服されたと聞く中で、見た事も無い鉄の船が突如現れて我が国を揺さぶったときの憂いにも通じるものがあるだろう。そう思うと、歴史のその時々に、我らが祖先も憂いの中で、天皇という存在がいかなるものかを考えたに違いない。


 今、我らは国に自信を無くし、民族としての自信を無くし、欧米の為すがままである。テレビのニュースでは毎日殺人のニュースを聞かされ、ドラマは人を殺して幕を開ける。まさに、人間は本来悪であり、金がすべての世の中であると考えるように仕向けられ、本気でそう感じるようになってしまったように感じる。

 私はそんな中でも、人間は本来善であって清いものであると信じたい。この世に生きてゆくなかで、人は罪を犯し、人の道を外れる。しかし、それは、生きてゆくことが誰にも保証されず、自分で手にいれる他に無いことに由来するものであって、もし誰もが生きてゆく事を満たされるならば、本来の善、清さは誰の元に現れてくるのだと信じる。


 しかし、それをどのように証明するべきなのだろうか。そう思う時、我が国の天皇という存在の意味と、我が国の歴史の中で脈々と息づき、そして時の為政者が守ってきた理由を知った。

 私が思うに、我らが祖は、人の善を最も良く知る一族に、いかなる時代においても人は善であって清いものであることを現してほしいと願い、天皇と言う存在を我が国に生み出して守ってきたに違いないと考える。それは、この世で生きていくという過程で忘れてしまいそうな善の自覚と清い心を持つことを、天皇という存在を通して再確認することであり、心の中の「善」「清」の鏡移し、あるいは自らの姿を映す鏡とも呼べる。つまり、私にとって、天皇とは私の中の「善」そのものであり、「清」そのものであって、両者を分つ事はできず、天皇は私の心の一部である。また、その鏡に我が身を映す時、如何に我が身が汚れているかを知る。


 このように考えると、天皇位に就くものが無私無欲の存在を目指し、至高の存在を目指し、我が国最高の祭祀としての任を全うする理由も自ずと理解できる。

 そう思う時、どうして天皇を守らずには居られようか。それは我が心の善そのものである。どうしてそれを汚す者達を許せようか。それは我が誇りへの侮辱である。きっと、この気持ちこそが我が国の歴史の幾多の戦乱をかいくぐっても天皇制が受け継がれてきた理由であり、我らの祖が命を賭しても守ってきた原動力であると堅く信じる。


 我が国が深刻な危機を迎えた今、この国が建国された頃に立ち戻って、その建国の意味を再確認し、単に先の戦争だけに捕われて論ずるのではなく、古く我が国の歴史の中で天皇が為した、その役割を再認識することが必要だろうと思う。

 私が思うに、我が国の建国の目的は、教育勅語に在る「国を肇むること宏遠に、徳を樹つること深厚なり」という言葉が物語っていると思う。また、天皇が為した役割とは、仁徳天皇の故事を思い起こすことが良いかと思う。

 このように我が国においては天皇と国民は魂の根幹で互いが繋がっている存在であるが、もし仮に天皇家がイギリスを初めとする欧州の王族のような立場に憧れ、本来の意義を見失うならば、それは天皇家のみならず我らにとっても大きな不幸の到来を意味する事になるだろうと思う。


 最後に、一つだけ良く心得ておくべきことが有ると思う。この国を守るという口実で安易に武力に訴えることは慎むべきであろうし、その口実の盾に他国の国益のために我が国の国民が血を流す事を決して許すべきではないだろう。この国の諸々の民を守る為に、また自分の善の象徴である天皇を守る為に、やむを得ず武力によって我が身を守ることは許されても、決して云われの無い理由を口実に一国を攻め滅ぼすことは断じて行なうべきではない。武力を以て征服するのではなく、徳をもって集うことを善しと承服させることを以て、我が国建国の意義を更に宏遠なものとすべきである。


追伸

 今上天皇を以て、天皇は125代(明治以前の数えでは124代)を重ねるという。

 私がこの世に存在するためには父母の2人が在って、父母が在る為にはそれぞれに両親が必要である。つまり、4人の人間が在った訳で、2代を重ねるために4人(=2の2乗)の祖を持つ。そう考える時、125代を重ねるためにどれだけの祖が必要であろうか。

 天皇2代を以て、国民の世代が1つ重なると考えれば、2の62乗となるかと思う。(もし間違っている場合は、ご指摘いただきたい)何と4.61x(10の18乗)となる。現在の我が国の人口を1億2千万として、えいやと計算すると384億倍となる。ちょっと僭越なことであるが、日本史の教科書に必ず載っている推古天皇を起点として考えても、推古天皇が35代(明治以前の数えでは34代)であるから、2の45乗、つまり約35兆人となる。ともあれ、これでも膨大な人数となる。

 とある小学校の先生の逸話を紹介したい。詳しい一語一句は忘れてしまったが、おおよそ、こんな話だったと思う。「皆さんにはそれぞれにご先祖さまが居て、天皇陛下と共にこの世を生きていたと考えると、ご先祖様の人数はとっても沢山になります。自分の隣に座っている人とも、日本人であれば誰とでも、いつの時代か御先祖様が一緒のときがあったと言えるのではないのでしょうか。だから、皆さん!お互いに仲良くしなければいけませんよ〜」と生徒に話しかけたと聞く。

 世知が無い世の中になってしまったが、そんな中でも国民同士の助け合いの精神を思い出したいと思う。

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