市町村が独自判断で教員を採用

今度、市町村が独自判断で教員を採用できるようになると、えせ藤沢人さんのブログ「藤沢生活」のコラムを通して知った。ちょっと否定的な立場から論ずることになるが、いろいろあるわねとご了解願いたい。


心配点は2点有る。

1つは、高度成長以後の政治家の私欲の食い物になったあげくの日本政府の赤字のとばっちりが教育に及んでいるのはないのかいう点、2つは、市町村が独自にという事になると、明治維新の際に目指した「日本国民として生まれた子供に等しく教育を施す」という原則が揺らぐのではないかと心配だ。

独自判断で教員採用を実現というと、地方分権の促進、三位一体改革の実現という口当たりの良いオブラートに包まれて誰もが賛成しそうだが、「藤沢生活」のコラムを読むと何て事は無い。私には、教員の人件費を中央から地方へ移転しているようにしか見えない。

また、市町村が独自で採用ということになると、地方間の格差が出来る訳であり、当然、過疎地域が不利になることは明白である。これは、明治維新の際に、日本人として生まれた子供に等しく教育を施すという精神の大きな後退を招く事になりはしないだろうか。

また、「藤沢生活」のコラムを読むと、こんな気になる記載が紹介されている。

>>「郷土教育などの特徴ある教育に合わせた人材が必要だ」
市町村の教員独自採用を可能に…2006年度にも(読売新聞、04.7.26)の冒頭より引用

これは何を意味するのだろうか。昨今、教育の現場に於いては、生徒の学力低下が至急の課題であったはず。この郷土教育の目指す目的は何なのだろうか。明治維新後、欧米の植民地化という国難から我が国を守るべく、親政をとった明治天皇は、その教育勅語の中で、「学を修め、業を習い」と表した。私には、今の日本も大きな国難と対峙しているように思えてならない。そんな中で、果たして郷土教育で、未来の日本を担う次世代の育成ができるものだろうか。私はこの点を深く憂う。

小学校、中学校の教育では、日本人としての基礎を固める教育であって欲しいと思う。これは、地方ごとに格差があってはならないものであって、日本人として等しく、その素養を身につけるものであって欲しい。格差を設けるのは、自らが自分の目指す分野を見いだすことに必要な教育、具体的には大学、或は高等学校の段階でも良いのではないだろうか。

恐らく「郷土教育を通して日本人としての誇りを持ち...」と意図しているのだろうが、日本人としての誇りを喪失している本質的な元凶を糺さないかぎり、日本人として胸を張り、日の丸が天下一だな、国歌はいいな、この国をもっと良くしなければ、自分にできるのはなんだろうという気概を持つには至らないと思う。

おのこやも むなしかるべき よろずよに かたりつぐべき なはたてずして

歌の文字はあれど、名を立てる理由を喪失しているのが今の日本だと思う。


市町村レベルでの採用を促進するのであれば、ぜひ実現してほしいことが1つだけある。

それは

市町村採用の教員に対する、児童保護者の総意に基づく罷免権の確保
である。

市町村による一方的な採用不採用でなく、保護者である親も主体性を持つべきだろうと思う。子供の教育は、本来は教師だけが考えるべき問題ではないとも思う。かつて我が国では、自分の子供はもちろん、他人の子供であっても、日本人としての素養に欠けることがあれば、注意して諭していたと思う。教育は専門家である教師が考えねばという主張を聞く事があるが、大半の教師が「日本人としての素養」に首を傾げる状態であっては、そこから生み出される専門的意見も首を傾げるような内容となるだろう。

そう思うと、単に教師任せにしては居られないだろう。

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絶対評価と相対評価 Part2

先日、「生徒の評価はどうする?:絶対評価と相対評価」というコラムを書きましたが、どうしてもしっくりこなくて、アレコレ考えておりました。ようやく形になってきたので Part2 としてまとめてみます。

なお、考えた挙げ句のものなので、不備な点、間違っている点、参考とするべき資料等あれば、コメントにてご指摘いただければと思います。

絶対評価の特徴について、以下の2点を挙げることができます。


  1. 絶対評価の方が相対評価よりも生徒を正しく評価できる。ただし、適用においては制約条件が課せられる。

  2. 極限状態では、絶対評価は試験の成績に近づく。

次に、個々の特徴の詳細について述べます。

  1. 絶対評価が優れているとする理由については、先のコラムを参照願います。ここでは、制約条件について述べます。絶対評価の場合は、相対評価では発生しなかった「評価を行なう人間の主観の混入」という問題が指摘できると思います。この問題を防止することが条件であり、防止の為の客観的な基準の導入が条件となります。

    この基準は、生徒の成績が正しく5段階に評価されるための基準と、評価した結果がクラス間、あるいは学校間で共通であるための基準の2つで構成されなければなりません。この2点が満たされない場合は、絶対評価が相対評価より劣っているとは証明できないものの、絶対評価は生徒を評価するには適切ではないと考えられます。

  2. 絶対評価の精度を高めるには、評価値の刻み幅の細分化と評価項目の詳細化の2面が指摘できます。刻み幅が最も高精度になる場合は試験の得点をそのまま使用する場合であり、評価項目が最も高精度になる場合は評価を行なう期間中に行なわれた試験をすべて使う場合となります。つまり、精度の極限状態では、絶対評価は試験結果と一致することが予想されます。

以上の踏まえて考えるに、絶対評価を採用する場合には以下のような方策が必要と考えられます。

精度の極限状態が試験結果となることを踏まえると、適切な試験問題を作成することが大変重要となります。しかし、これは作問者に対して大きな負担を強いるものであり、個々の教師が単独で行なうことは不可能と考えられます。また、学校間で基準が共通であることが必須であることを踏まえると、一括して全国に共通する試験を作成することが必要と予想されます。

ただし、教育の本来の目的が、学習すべき項目全ての習得させることと考えるならば、試験はその習得の度合い(ある意味で、未習得の度合い)を量るものであり、それを以て評価を行なうのは、教師が生徒に習得させていない箇所が残したことを意味することとなり、教師にとっての不名誉を意味することとなります。また、たった一回の試験(機会)だけで評価を行なうこと、つまり生徒の習得度合いを決定することは、生徒の進路選択の自由を狭める事にもなります。

よって、試験は、同一項目について複数回受験するを可能とし、生徒が少しでも多くを習得できるように配慮することが望ましいと考えられます。ただし、この案を採用した場合、複数回の試験における得点の経緯を評価の基準とするか、最高点のみを評価の基準とするかは議論の余地が残ります。なお、複数回受験するかどうかの選択は生徒に与えられるものとします。

次に、絶対評価が精度の極限状態で個々の試験結果に一致してしまうとするならば、果たして絶対評価の意義が有るのかについて考えてみたいと思います。

生徒を評価する理由は大きく下記の2点が指摘できると思います。


イ)習得すべき科目の習得度合いを明確化すること
ロ)習得する意欲を客観的に指摘すること

最初については前項で論じているので、ここでは2つめの理由について考えてみたいと思います。

「意欲」を計る対象として、過去との比較と他生徒との比較の2つが考えられますが、他生徒との比較を行なう場合、基準を設定することが著しく困難であることが指摘できます。よって、意欲は、評価対象者の「過去との比較」のみにより測る事が現実的と考えられます。また、評価方法としては、相対評価は不適格であり、「結果は、他生徒の存在の影響を受けない」という自明な特徴を持っている絶対評価が適していると言えます。

例として、前学期の試験において30点しか取れなかった生徒が、今学期に意欲を高めて50点の点数を取得した場合を考えてみます。この生徒は今会期に習得すべき内容の半分しか習得できなかったのですが、前学期と比較すると、より高い意欲を示したと言えます。とすれば、半分しか習得していないとしても意欲は高く評価されるべきでありますが、習得度合いのような数値的な基準では評価できないことが指摘できます。

つまり、意欲を測ることは、ある程度教師の主観が入らざるを得ないと考えることができます。

なお、先に述べた「複数回の試験における得点の経緯」が、生徒が示した「意欲」を意味しているとするならば、評価対象者の過去として用いることができると考えられます。

まとめ

  1. 取得結果の評価に試験結果を用いる場合、学校間で共通の試験が必要である。また、選択の幅を広げること、複数の機会を与えるという意味で複数回の受験権利を生徒に与えるべきである。
  2. 評価は、絶対的数値によって表現される習得結果と、教師が、対象生徒の「過去との比較」によって表現された習得意欲の2点で構成されるべきである。


補足

  • 相対評価を行なうことは、試験の作問の出来不出来による問題点を見えなくする効果を持ち、ある意味で教師の力量不足の隠れ蓑となっています。
  • 習得結果を量るための試験の実施については、近年発達したコンピュータネットワークの利点を大いに活用すべきです。

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生徒の評価はどうする?:絶対評価と相対評価

私は、相対評価より絶対評価の方が良いと考えております。

瀬戸さんのコラム「絶対評価と相対評価」と受けて、このコラムを書いております。

最近、「絶対評価「5」にばらつき 学校間格差45倍」という問題があるそうですが、私はこれは教師の教えるテクニックと、教える内容に起因するものではないのかと思います。また、例え相対評価であったとしても、学校間の格差、つまり生徒の修得度に格差があるのはないのかと考えます。

よく言われる問題点として、絶対評価における評価基準の問題がありますが、私は、生徒が全学期と比べて成長したか、また、自分の課した試験に対してどれだけ答えることができたかを基準とすれば別段苦にはならないと思います。

生徒の指導については教育指導要領が定められているのですから、指導要領に盛り込まれている内容を教えて、それを試験すれば良い訳です。もし、その試験でクラス全員が100点で有ったとしても、内容を全員が習得した訳ですから全員5でも一向に構わないと考えます。むしろ、それが自然ではないのでしょうか。

だって、一生懸命勉強して、90点とった。つまり教えてもらった事の9割を習得したにも関わらず、クラスの半分が91点であった場合、せいぜい3、恐らく2という評価になると思います。それじゃ、不満感だけが心を占めてしまうような気がしますし、「じゃ、適当にやっとけ」ということにならないでしょうかねぇ。


また、評価をなくすことについては、勉強の目安、ゴールを無くす事とならないかと危惧します。「100点取った!」の充実感は「次も頑張ろう」というやる気につながると思うんです。むしろ、相対評価であるが故に、ゴールの位置に向かって生徒を導くというよりも、目盛りが伸び縮みような定規で生徒を無理矢理序列化していることに問題があると思うのです。つまり、みんなで仲良くテープを切れるゴールも無く、試験が終わってから決まる定規で番号を振られる訳ですから、どうしてもお互いの足を引っ張るような行為をする。それがイジメに繋がっているようにも感じます。

さらに、5段階の評価を無くし、文章によって生徒を評価するとした場合、教師の主観や感情に左右され、恣意的にならないでしょうか。もし、どうしても文章によって評価することに固守するのであれば、評価を教師が行なうのではなくて、まず生徒を複数の班にまとめて、同じ班の生徒同士が寄せ書きするような形の評価にすべきと考えます。つまり、ABCDEFの6人構成の班の場合、A君の評価をBCDEFそれぞれが文章化する訳です。ただし、この場合、相手をけなすことが道徳的に恥ずかしいことであり、良い点を見つけて褒めることや、直す事によって向上するであろう欠点を教えてあげることが一番大切であることを生徒に理解させることが必須と考えます。


戦前は絶対評価であったと聞いております。戦後の日本人と比べると、戦前の日本人の方が「仲良く助け合う」心が養われていたように感じます。

成績評価、これは今の教育問題の根源の1つであり、政治の場でも議論する問題と思うのですが...どーでしょ。

だって...子は国の宝のはず.....

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愛国心:国を愛するってことは..

堅いタイトルなので、まず全く関係の無いところから行きましょうか。

私は大のマトリックスファンです。

3部作のそれぞれに「おぉ!」という大好きなシーンがあります。第3作では、ネオがトレインステーションで迷子になっている時にプログラムと交わす会話が、「おぉ!」というシーンなんです。

プログラム:この子を愛しているんです。(自分の作ったプログラム(娘)の肩をさすりながら)
ネオ   :プログラムが愛だなんて..
プログラム:愛という言葉ではなくて、その言葉の持つ意味が大切なんですよ。

 (略)

プログラム:貴方は大切なものを持っていますか。そしてその大切なものとの絆を保ち続けるために何をしますか。
ネオ   :どんなことでもする。

このシーン、まさにジーンと来ましたね。
ジーンと来ながら、自分自身で更に考えてみました。

その大切なものが生きている国はどうなるんだろ。
そのものを生きている国があるなら、その国を守るだろう。

つまり、おぉ!これが愛国心ってこと?

そう思うと、一般に人々が言っている愛国心には2通りあると思う。

1)大切な人が住んでいる国を守るという意味での愛国心
2)国民を総動員するための口実のための愛国心

ココログのFAIRNESSさんのコラムの「愛国心と愛政府心」に合わせてみると、
 1番は正真正銘の愛国心
 2番は愛政府心
と言えると思う。

そう考えるならば、我々日本人は右とか左に分かれるのではなく、
真ん中に大きなまとまりを作る事ができるのではないだろうか。

愛国心を毛嫌いしている方々、どーんなもんでしょうか?

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