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生徒の評価はどうする?:絶対評価と相対評価

私は、相対評価より絶対評価の方が良いと考えております。

瀬戸さんのコラム「絶対評価と相対評価」と受けて、このコラムを書いております。

最近、「絶対評価「5」にばらつき 学校間格差45倍」という問題があるそうですが、私はこれは教師の教えるテクニックと、教える内容に起因するものではないのかと思います。また、例え相対評価であったとしても、学校間の格差、つまり生徒の修得度に格差があるのはないのかと考えます。

よく言われる問題点として、絶対評価における評価基準の問題がありますが、私は、生徒が全学期と比べて成長したか、また、自分の課した試験に対してどれだけ答えることができたかを基準とすれば別段苦にはならないと思います。

生徒の指導については教育指導要領が定められているのですから、指導要領に盛り込まれている内容を教えて、それを試験すれば良い訳です。もし、その試験でクラス全員が100点で有ったとしても、内容を全員が習得した訳ですから全員5でも一向に構わないと考えます。むしろ、それが自然ではないのでしょうか。

だって、一生懸命勉強して、90点とった。つまり教えてもらった事の9割を習得したにも関わらず、クラスの半分が91点であった場合、せいぜい3、恐らく2という評価になると思います。それじゃ、不満感だけが心を占めてしまうような気がしますし、「じゃ、適当にやっとけ」ということにならないでしょうかねぇ。


また、評価をなくすことについては、勉強の目安、ゴールを無くす事とならないかと危惧します。「100点取った!」の充実感は「次も頑張ろう」というやる気につながると思うんです。むしろ、相対評価であるが故に、ゴールの位置に向かって生徒を導くというよりも、目盛りが伸び縮みような定規で生徒を無理矢理序列化していることに問題があると思うのです。つまり、みんなで仲良くテープを切れるゴールも無く、試験が終わってから決まる定規で番号を振られる訳ですから、どうしてもお互いの足を引っ張るような行為をする。それがイジメに繋がっているようにも感じます。

さらに、5段階の評価を無くし、文章によって生徒を評価するとした場合、教師の主観や感情に左右され、恣意的にならないでしょうか。もし、どうしても文章によって評価することに固守するのであれば、評価を教師が行なうのではなくて、まず生徒を複数の班にまとめて、同じ班の生徒同士が寄せ書きするような形の評価にすべきと考えます。つまり、ABCDEFの6人構成の班の場合、A君の評価をBCDEFそれぞれが文章化する訳です。ただし、この場合、相手をけなすことが道徳的に恥ずかしいことであり、良い点を見つけて褒めることや、直す事によって向上するであろう欠点を教えてあげることが一番大切であることを生徒に理解させることが必須と考えます。


戦前は絶対評価であったと聞いております。戦後の日本人と比べると、戦前の日本人の方が「仲良く助け合う」心が養われていたように感じます。

成績評価、これは今の教育問題の根源の1つであり、政治の場でも議論する問題と思うのですが...どーでしょ。

だって...子は国の宝のはず.....

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コメント

こんにちは。
コラム、何回も読みました。
とても素敵だと思います。
そうなんです。
へのへの419さんのおっしゃるように
教育が健全に運営されていたら、
絶対評価にまさる方法はないと思います。
また、絶対評価が教育の現場で採用された経緯は
行き過ぎた相対評価、過熱する受験競争、云々が背景にあります。
一言では言い尽くせない問題ですが、
しかし、いま踏ん張って考えなければいけない時期ではあると
思います。
ネットでも広く深くこの問題に関わっている方が沢山いらっしゃって
私も勉強になります。
また、こうして、意見交換ができる友(へのへの419さんのこと)ができるのもネットのおかげ。
これからも、楽しくお付き合いしてください。
では、、、

投稿: せとともこ | 2004.05.27 14:38

 こんばんは。はじめまして、ebonyと申します。瀬戸さんのBlogからリンクをたどってお邪魔しました。評価の話、難しいですが大事ですよね。
 個人的な意見になりますが、教育評価には「教えたことがどれくらい身に付いたのかを測る」というねらいと、入試のように、評価の結果をその個人の能力を表す指標として捉え、それに応じて人を選抜する(あまりよい言葉じゃないですが)ねらいの二つがあるように思います。前者を重視すると絶対評価、後者を意図すると相対評価のほうが良い、という話になるのではないでしょうか。
 それで、現在の評価をめぐる問題は、教育評価を選抜のための指標にするという社会的な文脈が圧倒的に力を持っている現状で、絶対評価を導入したということにあるのではないのかと思います。うまく書けませんが、そんなことを思いました。長くなりましたが、失礼します。

投稿: ebony | 2004.05.27 21:53

せとさん、ebonyさん、こんにちは。

コメントありがとうございます。
勉強になりました。
私もこのコラムを書き終えてから再度考え直しましたところ、「ん、ちょっとおかしいぞ」という点や自分の考えを表現しきれていない点等が見つかりました。
近いうちにコラム化したいと思っております。
その節には忌憚無いコメント御願い致します。

投稿: へのへの419 | 2004.05.28 09:29

コメントありがとうございます。
まさに私が思うところです。
絶対評価の導入は私も賛成です。但し、あくまでもへのへの419さんのおっしゃるとおり、過去との対比、良い所を認める積極的な評価付けを望みます。
しかし、こと入試への導入となれば
「大学入試の共通一次のような全国共通の問題を元にした絶対評価」
これでなければ基準の統一化は難しいと思います。

投稿: | 2004.07.02 02:32

相対評価は必要だと思います。自分がどれくらいできるかだけ知っていても、自分のためにならないと思うからです。私はあまり勉強の出来るほうではありませんでしたが、周りと比べて自分が今どこらへんにいるのか、それにより今私に一番向いている分野がわかったし、これくらいは分かっておかないと、というレベルがわかりました。競争もある意味必要なのではないでしょうか。

投稿: ゆみ | 2004.07.19 19:14

蘭さん、コメントありがとうございます。

絶対評価を入試に持ち込む場合、全国的な基準がないといけない点等、考えを同じくするところが多くて嬉しいですね。もし、宜しければ、他のコラムに対して、良い点、悪い点を問わず、率直なコメントいただけると助かります。

ゆみさん、はじめまして。

コメントありがとうございます。

「自分がどれくらいできるかだけ知っていても、自分のためにならないと思う」と言う点、どう理解すれば良いか、ちょっと戸惑っています。もう少し、具体的、あるいは詳細な説明が必要に感じます。何となく、相対評価で平均的な点数を貰って、安堵しているような気がするのですが...

競争が必要であることは、私も認めます。でも、競争することの目的は何なのでしょうか。他人を押しのけて、お山の大将になる為? それとも、他人には無い、自分だけが持っている才能を生かして、次世代への遺産を残すため?そう考えると、どんな評価が相応しいか、自ずと意見が集約されてゆくように思います。

また、私が疑問なのは、「周りと比べて自分が今どこらへんにいるのか、」という点が相対評価の結びつく理由です。この点については、絶対評価でも、お互いのテストの点数を比較すれば達せられる訳で、相対評価だけの利点ではないように感じます。

ただ、「それにより今私に一番向いている分野がわかった」という点は、私も大切だと思います。でも、もし、貴方が一般と比べて物理学的な発想が豊かであったにも関わらず、たまたまクラスで物理学的な発想が得意な生徒が多かった場合、あなたに才能があるのに相対評価では平均、或は平均以下という評価になりうる訳ですよね。この点はどう思います?

あ、もし、物理学が御得意であれば、ご自身の相対評価で悪い評価を受けた分野に置き換えてください。要は、相対評価で平均或は平均以下の評価を受けたとしても、クラスを越えて、学校を越えて評価した場合、良い評価に変わる可能性がある点を説明したかったのです。

ともあれ、私は相対評価をまったく否定するものではありません。コラムでは、相対評価で評価すべき項目と、絶対評価で評価すべき項目が分かれるのではという提案もしております。他人と切磋琢磨して伸ばすべき項目って何でしょうか?

人間であれば、それぞれ得手不得手があります。その得手不得手の才能の土台となる、人間共通のものは何でしょうね。それこそが、私は相対評価されるに足る対象だと考えています。

また、気が向いた時にコメントください。

投稿: へのへの419 | 2004.07.24 19:14

相対評価が良かったからこの分野は向いているというのではないと思います。実際に私の場合も、クラスの中では下の下でした。でも、今もその分野を勉強中です。それは、クラスの中では”出来ない組”で、悔しい思いをしてもやっぱりこの分野をやりたいんだと改めて実感する事ができたからです。
逆に、好きだと思っていても、ある時何らかの理由で(例えば調子が悪かったとか、他の子が急に勉強し始めたとか)評価が下がった時、もしかして他の道があるのではないかと考
える人もいると思います。

もしも絶対評価だけだとしたら、物凄く簡単な問題で、誰もが解ける問題でも自分は出来たつもりになります。こんなの、出来るのが当たり前なこと。それなのに自分は出来るんだと思い、外に出たときにいきなり自分の無力さに戸惑うのです。出来ると思っていたのに、出来て当たり前なことだった…と。現に私の姉がそうなので、そのギャップの激しさはよくわかります。それっていい事だと思いますか?
周りの人を常に気にしていくのではありません。でも、社会の中で生きていく以上、集団活動は免れません。それでも、自分がどの程度できたかだけを認識し、みんながどれだけ頑張っているか、どの程度出来ているかを知らないというのでは、その後の可能性も狭まってきてしまうと思います。
競争は、誰かを蹴落としていくためのものではありません。蹴落とす必要がどこにありますか?自分が信じた道を、ひたすら進んでいけばいい。その際に、自分より前を走る人がいたら、その人に追いつけるにはどうすればいいか、考える。
前を走る人がいなかったら、考えるチャンスもなくなり、それ以上良いものが生まれないと思うのです。
まわりとの差は、テストを比べればわかるかもしれません。しかし、比べていくうちに誰が出来るか把握し、自分より出来ない人と比べ満足を得るのでは意味がありません。

絶対評価も相対評価も、メリットデメリット両方あります。ただ、人間は誰かの真似をする事が教育の第一歩です。そうして言葉を覚え、生活習慣を見につけていくのです。周りの人にも意識を向けることは、いつになっても変わらず大切な事ではないでしょうか。
私は、この先教育の場で、二つの評価を適切に用いていく事が重要だと思います。常に主役は生徒だと言うことを考えて。人間勉強が全てではないですから。

投稿: ゆみ | 2004.07.28 12:48

ゆみさん、コメントありがとうございます。
レスが遅くなってしまい、すいませんでした。

ゆみさんのお考えは判りました。

ただ、相対評価について、ちょっと指摘させていただいていいですか?

先のコメントでは相対評価は必要といいながらも、今回のコメント読むと、「相対評価が良かったからこの分野は向いているというのではない」と、相対評価の効果を否定するような意味合いの発言にちょっと違和感を持ってます。

ところで、相対評価は%で5段階評価するものですよね。学校間で、あるいはクラス間で普遍的な物差しになるのでしょうか。

つまり、Aという学校で物理が2でも、実はその学校の物理の教育水準がとても高くて、Bという学校の物理の相対評価に置き換えると実は4だったという現象も起きているはずです。


とすれば、果たして相対評価の評価意義は何なのでしょうか。わたしはその点を指摘している訳です。また、相対評価を否定している訳でもありません。相対評価すべき対象と、絶対評価すべき対象がおのずと分かれるのではという提唱している訳です。ご理解ください。

また、「物凄く簡単な問題で、誰もが解ける問題でも自分は出来たつもり」という点も気になります。義務教育のそもそもって何だったのでしょうか?

端的に言ってしまえば、日本人として習得すべき内容は、日本人の子供全員が漏れなく習得できるとするものですよね。とすると、誰もが解ける問題を解けることを確認することも、テストを行なう大切な意義では?

解けないことを生徒に突きつけるのではなく、解けることを生徒に確認させて自信を持たせることも大切かと。また、コラムでも書きましたが、解けるべき問題を解けない生徒が居た場合、それは教師の責任という自覚が必要かと思います。


最後に、これはゆみさんの気分を害する内容かもしれませんが、勘弁を。

私は、教育に於いて「主役は生徒」だとは思っておりません。知らない、わからないから教育するのではないのでしょうか。その「知らない、わからない」人間を捉まえて、貴方が主役というのはいかがなものでしょうか。

「知っている、わかっている」という人間が主役を務め、「何を知らなければならないのか、何を理解せねばならないのか」を、生徒に対して手がかりを与えることが必要だと私は考えます。手がかりを与えることは、その道程の最初から最後を知っているものではなければ務まらないと思いますが...

宜しくご了解願います。

投稿: へのへの419 | 2004.08.14 12:47

意見ありがとうございます。読むたびいつも考えさせられます。とても勉強になります。
まず、相対評価が良かったからといってこの分野が向いているのではない。といったのは、相対評価を批判しているのではありません。自分に合ったものを見つけるとき、相対評価が悪かったからこれは向いていない、と思うのではなく、悪くても好きだから頑張ると思えることが本当の「好き」だと思うのです。少しややこしくて申し訳ないです。
もしも、相対評価で悪い結果が出た時に、それですぐ諦めてしまったらそれは、本当の「好き」「向いている」ではないと思うのです。
また、誰でも解ける問題で自信をつけるという意見ですが、私もとても賛成です。私が言いたかったことは、今いる枠の中から外に出た時のことです。例えば、自信をつけたから余裕で外に出てみたら、周りは自分よりもっと上だった。大げさに言えば、独り善がりでしかなかった…
自信をつけることは、子どもにも大人にも、生きていくうえでもしかしたら一番大切な事かもしれません。しかし、「ギャップ」にも対応出来ないと、後々辛い思いをしてしまうと思うのです。
私は、生徒が主役だと言いましたが、”主役”とは、進めていく人のことではないと思うのです。先頭きって進めていく人が主役なのではなく、誰のためのものか、誰を一番に考えていくべきものなのか、ということです。
教師を一番に考えたら、わからない生徒は置き去りにされてしまいます。わかっていると言う人間が主役を勤めると、わからない人間の気持ちは本当にその個人にしかわからないものになってしまいます。
ただ、生徒をあまりに中心に考えると、それは、学級崩壊にもつながってしまう恐れがあると思います、大袈裟かもしれませんが。
私が一番言いたいことは、相対評価は、必ずしも不必要なものではないが、分野によって使い分けることが重要になってくると言うことです。その評価方法のメリットデメリットを理解し、分野により上手く使い分け、生徒の個性或は存在理由を確り学ばせてあげる事が、大切だとい思います。
毎回の意見本当に感謝しています。
ありがとうございます。

投稿: ゆみ | 2004.08.14 23:46

ゆみさん

書き込みありがとうございました。

 私も勉強させていただいておりますよ。感謝しております。また、ゆみさんの教育に対する思いもひしひしと感じています。

 まず最初に御伝えしたことがあります。何分、顔の見えない中での発言のため、言葉使いを誤り、知らず知らず不快な思いをさせていたかもしれません。もしそうであれば御詫び致します。また、そのような事を意図していないことをご理解ください。

 さて、最初の段落の「相対評価が悪くても個人の適性は別にある」という追加書き込みでようやくゆみさんの意図していることがわかりました。まったく同感です。また、「自信をつけたから余裕で外に出てみたら、周りは自分よりもっと上だった。」という記載にはウンウンと頷いております。周りが自分よりも上で、自分の非力を思い知られたという経験は往々にしてあることだと思います。現に今の私はそのまっただ中ですし...

 しかし、そんな中でも『謙虚」であれば、相手の胸を借りて自分を高めるということで、その辛い思いを昇華できるのではないのでしょうか。その「謙虚」を教える教育が戦後の教育にあったのかなと疑問に思っています。戦前は確か修身という科目で、人が人であるために大切なことを教えており、その中に謙虚であることが含まれていたように思います。(とは言うのの、私は戦後世代ですが。。。)

 ゆみさんに提案が1つあります。主体性と主役という考えを導入してはいかがでしょうか。私が教師が主役であるべきと申しましたのは、主体性が生徒にあったとしても、主役は教師であるべきだと思うのです。例えて言えば、教師が生徒を教えるということは、嘗て自分が進んだ道を戻り、松明を手にして未だ歩いた事無い「生徒」と歩みを同じくして進むようなものだと思うのです。その道程の瞬間、瞬間に何を思い、何を知り、何を得るかは生徒の「主体性」に依存する物であって、教師はその側に付き添って「気づき」へと導く存在であるべきだと思うのです。いかがでしょうか。と言え、それは大変難しいことだと思ってますが。

 「相対評価は、必ずしも不必要なものではないが、分野によって使い分けることが重要」という点には、全く意見を同じくします。実は、ゆみさんにご覧いただいているコラムは最初のコラムでして、「分野によって使い分ける」点について述べた別コラム( http://japanese.tea-nifty.com/gyokuro/2004/05/_part2.html )があります。もし宜しければ、ご覧頂ければ幸いです。

 数回に渡る書き込み、ありがとうございました。有意義な会話をすることができ、大変嬉しく思います。こんな私であり、極論もあるかと思います。同調する点だけではなく、ゆみさんの主観で同調でないといった意見でも結構です。御手空きの時にでもコメントいただければ幸いです。

投稿: へのへの419 | 2004.08.21 14:51

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